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小説 電子禁煙 第六章 不正と処罰

 アプリの急激な普及、配信停止と解除、アップデートに対する賛否両論、ネットでの殺害予告など、短い期間に起こった多くの騒動を、アプリ開発者として、自分の事として経験してきたシメジであったが、しかし毎日は他のサラリーマンと同じように満員の通勤電車に揺られる生活を繰り返していた。

 その日もいつものように出社したシメジは、いつものようにバッグをデスクの下に置き、いつものようにパソコンを起動し、いつものようにメールをチェックした。相変わらず何の仕事も与えられていないシメジなので大したメールは来ない。『本社ビルの配電盤工事に伴う停電のお知らせ』、『第3回社内親睦ボウリング大会について』、『社会保険料変更に伴う給与計算方法の変更について』、『海外営業所電話番変更のお知らせ』。どれもシメジに関係があって関係がないものばかりだから、既読にだけして、中身は流し読みで済ませた。朝のメールチェックはいつものようにすぐに終わった。
 メールチェックを終えたタイミグでさらに一通メールが届いた。『業務連絡』。見慣れないメールの表題に、シメジは非常に嫌な予感を抱いた。メールを開くシメジ。シメジによって開かれるメール。

 ”販売推進部 シメジ様
 お疲れ様です。
 社内のシステム利用に関しまして、お伝えしたいことがござますので、ご多忙のところ申し訳ないのですが、本日午後、お手すきの時間に、本社n階、情報技術システム部までお越しくださいますよう、よろしくお願いします。
 情報技術システム部 ツゲノキ”

 終わった。とシメジは思った。鼓動が速まり、冷や汗が出てきて、全身がチクチクした。脇と尻が汗で湿るのが分かった。今日の星占いが何位だったか無性に知りたくなった。12位だ、きっと12位だ。危惧していた現実がやってきた、ついにバレた、何もかもがバレてしまったのだ。
 昔見た映画で登場人物が言っていた、「本当の不幸は背後から音もなくやってきて、気付いた時にはもう手遅れだ」と。どうしてそのことを思い出せなかったのだろうか。いや、不幸などではない、悪事が明るみに出ただけなのだから自業自得だ。今日までのことがぐるぐると頭の中で再生され、検証されていく。すべての高揚感も騒動も今となっては幻のように感じられた。
 データベースへアクセスしていたのはバレるはずがないはずだはずだはずだはずだ。我ながら完璧な侵入だった。誰でもいいから完璧だったと言ってくれ。誰もいないか。でも、もしかしたら、なにか自分の知識では気が付けない失態があって、それを発見されたのではないか。どこかに痕跡を残してしまっているとしたら、どこだろう。いくら記憶を絞り出しても徒爾なりや。知識がないから残してしまった痕跡を知識がないのにどうやって思い出せるというのか。
 もしかしたら、データベースの件は勝手口を開けっぴろげているようと思わせる作戦であり、あえて誰でもログインできる不備を残しておくことで、社内の不穏な分子をおびき寄せようとした罠だったのか。それに気づかないとは何たる不覚。シメジは自分が誘引剤につられてやってきたゴキブリである想像をした。わざわざ足ふきマットで油分も取り除かれた挙句、粘着シートの真ん中でもがく害虫。もがけばもがくほど6本の足にトリモチが絡みついた。今さら羽ばたいてみてもなんの意味もなかった。きっとこのままゴミ箱へ放り込まれ、燃やされてしまうのだ。

 不安は別の不安を呼び寄せる。データベースの事がバレているならもしかしたら、このパソコンで何をやっていたのかもすべて筒抜けだったのだろうか。大企業だもの、何の監視もしてないなんてことはきっとありえない。自分はあまりにも無垢でありすぎた。アプリを作るための開発環境をインストールしたことも、ライブラリをアップデートするための通信内容も、自販機の位置情報データを自分のサーバーにコピーしたことも、アプリのユーザーの掲示板を覗いてリアクションや議論を眺めていたことも。どんな動画を見てたかの履歴だってきっと知ってるに違いない。全部だ。きっと全部お見通しだったんだ。さっきまでゴキブリだったシメジは、今はお釈迦様の手のひらで粋がって見せる孫悟空になっていた。向こうの方が何枚も上手なのだ。自分ごときが敵う相手などではなかったのだ。
 汗が止まらなかった。寒気がしてきて、呼吸が不規則になってきた。大企業様が用意してくれたクッションの効いたエルゴノミクス設計のオフィスチェアなのに座っていられなくなり、一旦席を離れて、行きたくもないトイレに行った。トイレに行っても出るものなどなく、ため息すら出ず、手だけ洗い、鏡に映った自分に「落ち着け」と言っては見たが、自分の顔を直視することさえできなかった。席に戻ってきたが事態はなにも変化していなかった。隣の並行宇宙に行く方法を誰か教えてください。メールはそのままあって、宛先は自分以外の誰でもなかった。メールの本文に続きを探したが、何も書かれていなかった。いっそのこと、メールなんて無視してしまおう、そんなメール届いていなかったと言い張ろうか。そんなことしてもまたメールが届くに違いないし、事態がさらに泥沼化することぐらいは今のシメジにでもわかることだった。もはや、何をしても、どんな作戦を立ててみても無意味だった。どれだけ考えてみてもすべての思案は、ダメとか無理とかの否定形へと帰着するのだった。
 シメジはやっとの思いで一行、「了解しました。午後1時にそちらへ伺います」とだけ書いて、メールを返信した。キーボードは手汗でびっしょりだった。昼間に社員食堂で食べたきつねうどんは味がしなかった。

 色で例えるなら墨汁に汚泥を混ぜた黒の、最悪な気分で昼休みをすごした後、約束の時間となり、乗り込んだ情報技術システム部へと向かうエレベーターは、シメジにとってまさしく絞首台への階段であった。どんなふうに処刑されるのだろうか。肉体的に。精神的に。そんなことばかりがシメジの頭を占領していた。
 情報技術システム部は、エレベーターをn階で降りた先、廊下の突き当りにある。巨大企業NT社のITを一手に引き受ける重要な部門である割にフロアは広くなく、在籍している従業員もあまり多くない。シメジはこのフロアには来たことがなかったから、中に入ってみて、その普通っぽさに驚いた。テレビでよく見るIT企業のポップなイメージとは無縁の地味な部署だったからだ。シメジが以前所属していた広報部のほうが断然華やかであった。それもそのはず、実際のところ、NTのITに関する業務はそのほとんどを社外の開発会社に委託しており、部署内で自前で何かを開発しているようなコンピューターエンジニアは数えるほどしか在籍していなかったのである。IT部門ではあったが、その業務は、社内の根回しや書類づくりなどの事務的な作業がほとんどであり、例の自販機用AI監視カメラだって、共同開発とは言っていたが、完全なる外注で、社内のエンジニアは一切関わっていなかった。
 ITっぽさのないこのフロアの一番奥、窓の近くにツゲノキのデスクはあった。極度の緊張で周りが完全に見えなくなっていたシメジは、奥にたどり着くまでに机の角で二回腰を強打し、知らない人のゴミ箱を一回蹴り飛ばした。健康ウォーキングほどの早足で進み、ようやくたどり着いたシメジは、デスクでノートパソコンを触っていた深刻そうな顔のツゲノキに声をかけた。緊張のあまり何と言ったのか自分でもよくわからなかった。文法すら正しかったかどうか怪しい。
 シメジの悲壮感たっぷりの挨拶とは対照的に、ツゲノキは紳士的かつ丁重にシメジに接した。
「あ、どうも、シメジさん、わざわざ来てもらってありがとうございます。隣のミーティングルームを取ってありますので、詳しくはそちらで」
 衆目から隔離するということはやはりよくないことを言われるのだ。ここでは言えないようなことを言われるのだ。ツゲノキの紳士的な態度など関係なく、シメジは全身にびっしり汗をかき、膝は笑っていた。世界中から孤立している感覚だった。
 移動した先のミーティングルームには窓がなかった。席に着いたツゲノキは抑えたトーンで話し出した。
「実はですね、うちの会社のサーバーを少し前にクラウドへ移行したのは、ご存じだと思うんですが」
 シメジは心臓が縮み上がり、今にも心筋梗塞を起こしそうな気分だ。
「そこにセキュリティ上の問題があることが発覚しまして」
 もうだめだ、気絶したふりでもしようか。シメジは何も考えられなくなっていた。
「有給休暇管理システムに不正アクセスした社員がいることが明らかになったんです」
「え?」(それは私じゃないぞ。)
「で、実はですね、その社員が、シメジさんの有給休暇の残日数を勝手に減らして、自分の有給休暇に加えていたんです」
「え!?」
「驚かれるのも当然だと思います。我々としてもそのような不正アクセスが起こらないようなシステムの設計を進めていたつもりだったのですが、本当に申し訳ないことで」
「え、いや、あの」シメジは生きている実感を味わっていた。首に縄までかけられたのに、あなたは無罪放免、死刑執行とは無関係だったと言われたような心境だった。いや、自分で勝手に自分の事を死刑囚だと思い込んでいただけだったのか。部屋の照明がやけに明るく感じた。「いやー、LEDって明るいですねー。省エネって素晴らしい」などと無意味なことを言いそうになった。ツゲノキはノートパソコンの画面を見せて、説明を続ける。
「こちらがその証拠で、これがシメジさんの有給休暇の残日数。で、こちらが、社員の氏名は隠していますけども、不正に増やした日数で。もちろん、すでにシステムは改修して、シメジさんの有給休暇も元通りになっています」
「あ、はい。いや全然大丈夫です」自分の悪事がバレていないのなら、もう何でもよかった。有給休暇がちょっとぐらい少なくなろうとそんなものはどうでもいい、むしろその社員に差し上げるさ。もってけ泥棒。
「そこで、ご相談なのですが、この件、不正にアクセスしたのが、うちの部署の中の人間で」
「ええ」
「システムのクラウド化はうちの部署としても非常に重要なプロジェクトで、何が何でも進めていきたいのですが、ここでこの件が全社的に広まってしまうと今後のプランがすべて水の泡になってしまいます。ですので、できればこの事は、ごく一部の関係者の間だけで留めておきたいのです。もちろん、不正アクセスを行った本人に対しては厳正な処置を施すつもりです。ですから、それで、なんとか、ご了解いただけないでしょうか」
 死刑執行人だと思っていたツゲノキさんが、今は頭を下げて私にお願いをしている。まさかの展開にすっかり安堵しきっていた私は、「対応はすべてそちらの部署にお任せします」とだけ伝えて、ミーティングルームを後にした。昼間にきつねうどんしか食べていなかったので、疲労と空腹で足元が覚束なく、帰り際、またゴミ箱を蹴飛ばしてしまった。

 奇跡の生還劇から数日後、人事異動があり、情報技術システム部からガクブチという、地味で特徴のない、シメジよりも少し先輩の社員が販売促進部にやってきた。シメジから有給休暇を盗んだ張本人である。クラウド移行プロジェクトに関わっていた社員の一人であり、移行に関するプログラムの一部を実際にコーディングしていたエンジニアでもあった。いわば、正式な権限を持って有給休暇システムの内部に入り込めるごく限られた人間の一人だったわけである。こんな人物が不正を働いたのだから、もはやNTとしても情報技術システム部としても防ぎようがなく、今回の事件はある意味不運であったとしか言いようがない。そして残念なことに、これによって情報技術システム部の、ただですら少ないプログラマがさらに少なくなってしまったのだった。
 他の社員からしてみれば、この部署にやってくるということは、よほどの役立たずか、何かとんでもない事を仕出かしたかのどちらかであることは、暗黙の了解として明らかであったが、情報技術システム部、あるいは上層部が相当厳しく箝口令を敷いたのか、有給休暇のことは誰からも噂には上がらなかった。
 毎日出社はしてくるものの、当然ながら何もすることがなく、所在なさげにデスクに向かうガクブチを見て、シメジはこの前の心のつぶやきを撤回し、声には出さず心の中で厳つい人を演じてみた。
「えっへん、おっほん。ガクブチくん、君が犯してしまった罪、すなわち人の大切な有給休暇を盗んだ罪は重い。先日は、どうでもいい、もってけ泥棒などと口走ってしまったが、あれはついその場の雰囲気で言ってしまったことであーる。やはり罪は罪として償わなければならない。販売促進部へ飛ばされたことで償ったつもりになっているかもしれないが、それはそれだ。私が受けた精神的苦痛に関しては何も解決してはいない。私がどんな気分できつねうどんをすすったか分かるかね」精神的苦痛だなんて、そもそも自分が悪いんじゃないかとシメジは笑いを堪えた。
「そこでだ。ガクブチくん。そこで、君には罪滅ぼしとして、私のためにひとつ重要な任務を背負ってもらおうと思う。なーに、簡単なことだ。不安な顔をしなくてもいい。いずれ時が来れば指示をするから。今はまだ何もせず、そこに黙って座っててくれればいい」
 芝居がかった台詞回しには、シメジの虚と実が綯い交ぜになっていた。

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