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関ケ原

会社が変わると文化も変わる。気づくことも多い。「こういうことか」と腑に落ちる出来事が春からいくつもある。会議もそのひとつ。延々と長時間カンヅメになって結局ひとつも進まない、という場所に何度も居合わせたことがある。自分が主導権を握る場では何かしら決定事項が出るよう進めていたのだけど、会議という場所はそれだけじゃ物足りないのだなということが最近になってよくわかってきた。

会議中に「決める」だけじゃなくて「動く」ことも取り入れる、ということ。ブレストして案を固めていきながらでも、会議中に動けるところはどんどんアクションを起こしていく。あぁこれがスピード感の違いなのかと、初めての業界へ足を踏み入れて思い知らされた。思慮深く考えることも大切だけど、場面によってはどんどん走ってみた方がいいこともある。会議の場であっても、常に走ることを意識すること。組織を時代に合わせていく力のひとつは、こういう細かな文化の違いから来るのかもしれない。

映画『関ケ原』は、組織作りに失敗した男の末路が描かれる。豊臣秀吉のトップダウンで成り立っていた組織において、会議は既に決定している事項が話される伝達の場でしかない。決める人間、伝える場、実行する人。この役割分担は決定する場に立つ人物への圧倒的な信頼で構築される。

属人的な才能に依存して作られる組織に継続性はない。まして、世は乱世直後。豊臣秀吉亡き後、合議制での政治へ体制変更が図られるが、決める場所へ参加する者同士の思惑がバラバラ。石田三成、徳川家康、前田利家。ベクトルが異なる権力者がその権威を奪い合うと、組織づくりを理解して動けない者は立場を弱くしてしまう。そのジレンマが、石田三成を通じてよく描かれている。

司馬遼太郎の原作、東宝が配給、制作は日活の制作集団が集うジャンゴフィルムと聞けば、見に行かないわけにはいかない。2時間以上もある大作だが、時間を感じさせない濃厚なセリフのやり取り。迫力の合戦シーン。細やかな時代考証。日本映画の大作を久しぶりに見せつけられた。物語の顛末は歴史として知っているのに、スクリーンから目が離せない。邦画の力は、まだまだこんなものじゃない。エンターテイメントの世界にいる人たちへ、映画業界からの宣戦布告といったところだ。悔しくもあり、そのスケールに圧倒もされた。ぜひ劇場でご覧いただきたい。

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