見出し画像

解体新書と平賀源内と福沢諭吉

通訳案内士の試験勉強のための、まとめノートです。

解体新書は、平賀源内と福澤諭吉がいなければ、これほど有名にはならなかったかもしれません。この二人と解体新書にはどんな関係があるのでしょう。

ご存知の通り、『解体新書』は、オランダの医学書を翻訳し安永3年(1774年)に出版された解剖学書です。時代は十代将軍徳川家治の治世、いわゆる田沼時代のことです。

『解体新書』は当時、日本では理解するものが少なかったオランダ語を翻訳したもので、その作業は並大抵の苦労では成し遂げれなかったと伝わっています。この書をこれほどにも有名にしたのは、あの正確な人体解剖図ではないでしょうか。この挿絵を模写したのが久保田藩士小田野直武です。

この小田野に西洋絵画を教え、さらに、杉田玄白らに小野田を紹介したのが、平賀源内なのです。平賀源内は、秋田藩の鉱山開発の要請を受け、領内の鉱山に向かう途中、角館に立ち寄りました。そこで小野田直武と出会いました。彼の絵の才能を見出した平賀は小野田に西洋画の遠近法、陰影の付け方など写実的な手法を教えたと言われています。
また、平賀は江戸にて杉田玄白と15年来の付き合いがあり、そのような折に『解体真書』の挿絵師を探すことを依頼されました。そこで、この小野田に白羽の矢が立ったのでした。
このような、平賀源内の多彩な才能、人脈の広さがなければ、『解体新書』の精密な挿絵は生まれなかったのです。

『解体新書』が刊行されてから、杉田玄白の名声は上がり多くの弟子が集まりました。晩年、蘭学草創期、『解体新書』翻訳作業の苦心談を後世に正しく伝えるために『蘭学事始』を著しました。『解体新書』には記載されていなかった、前野良沢という人物がいかに重要な役割を果たしたかが描かれています。この本は3部しかなく、時代とともに失われてしましました。
しかし、江戸時代後期に偶然にも福沢諭吉の手に入ることになります。この本の内容、先人の偉業に感銘を受けた福沢は、明治2年(1869年)自費にてこの書籍の再版しました。この福沢の行動により『解体新書』や蘭学や学問に対する姿勢・情熱というものを、より世の中に広めることになりました。現在においても医療に携わる人々の心構えを伝える教書となったりしています。また、『蘭学事始』を題材とした、多くの書籍、小説、漫画も作られました。

福沢は、オランダ語翻訳の作業を眼の前にした杉田玄白たちが「大海原に舵や櫓がない船に乗って、ただただ呆然とするばかりであった」という節に大きな感銘を受けたと再版した『蘭学事始』の序文に綴っています。さらに、福沢は『解体新書』の翻訳に携わった桂川甫周の孫である桂川国興と知り合いであったこと、福沢自身も適塾(蘭学)塾長を経験し、慶應義塾(旧蘭学塾)創設者でもあることから、『解体新書』、蘭学に対する思い入れは人一倍強かったのでないかと思います。

【解体新書トリビア】

  • 解体新書には前野良沢の名前は記載されていなかった

  • 解体新書の翻訳には仏蘭辞書を参考にしていた

  • 解体新書の元となったオランダ語のターヘル・アナトミアもドイツ語からの訳本だった

  • 解体新書は、現在の大分県(前野良沢)、福井県(杉田玄白)、秋田県(小野田直武)から集まったパイオニア達の合作

  • 小田野直武の絵画は、国重要文化財に指定されている

  • 平賀源内は現在の香川県の出身、西洋画を描いている

  • 解体新書は10代将軍徳川家治に献上された

  • 小田野直武の故郷、秋田県角館にある青柳家には小田野直武が贈った『解体新書』が展示してある

  • 解体新書を保存している施設

【蘭学事始を題材とした書籍・漫画】

蘭学事始:杉田玄白 (Rakuten)
冬の鷹:吉村昭 (Rakuten)
東西奇ッ怪紳士録:水木しげる (Rakuten)

【日本を英語で旅するブログ(秋田県角館)】


素晴らしい文化、自然を海外に発信・広めて行きたいと考えています。