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弱さを抱えたままの強さ

世界は、たくさんの危険に満ちている。

というと、大げさだけど、9ヶ月になる子どもがつかまり立ちを始めて、つたい歩きまでしようとしている。動く範囲も手を伸ばせば届く高さもどんどん広がっていく。

そのたびに、私たちは追われて危険を無くしたり、和らげたりする。本棚の背表紙を眺めては触っているな、と思ったつぎの瞬間には、どてんとひっくり返っていたりする。

かれの遊びスペースにはちゃんと柔らかいマットを敷いている。子どもはそういう弱さを許されているし、その弱さに合わせて大人も可能な限り安全に配慮する。

大人はどうだろうか。

やっぱり世界はたくさんの危険に満ちているけれど、前もってリスクを予見して取り除いてくれる誰かがいるわけではない。歩いていて転ぶことはないけれど、ときどき痛くなるような思いをすることもある。身体の傷よりも心の傷のほうが多い。

傷つかないように、危険をさけるように、たくさんの「鎧」をまとったり、危ない場所には出かけなかったり、すれば良いのだろうか?

そうじゃない気がしている。だれかの攻撃性のせいで、自分が動けなくなったり、誰にも弱さにつけ込まれないよう隙を見せない完璧さを装ったり、そんな強くないと生きられない社会はつらくないだろうか。

セキュリティの概念で「可用性」という言葉がある。秘密にしたい情報をがんじがらめに閉じ込めておけば、「安全性」は保たれるが、いざそれを使いたいときに不便さを感じてしまう。だから、安全でありつつ使いやすい、そういうバランスを考える。

弱さをほったらかしに無防備で世界に飛び出すのはやっぱり危険かもしれないけれど、過剰に強く見せたり、防御したりすることも、また生きづらさにつながってしまう。
安全性を社会の制度や構造が担保してくれて、一定の注意を払えば「弱さを抱えたまま強くあれる」、そんな社会の実現は難しいだろうか。
少なくとも自己責任と実力主義で、弱いものが淘汰される社会は、弱さを抱えたまま生きるのは難しい。

「自分らしくいる」「ありのままでいる」そうでありたいと思うとき、弱い自分が現れるように思う。鎧を着ていない自分のままで、世界を歩きたい。そのままでも強くいられる社会がいい。

宮地尚子『傷を愛せるか』"弱さを抱えたままの強さ"を読んで。


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