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一人で頑張ってしまうわけではなくて

一人で頑張ってしまうあなたに、頑張りすぎなあなたへ、そんな優しい言葉をかけてくれる記事や本がある。でも、実際には、ちょっと違うんだ。「一人で頑張りたくて頑張ってしまう」のではなく「一人で頑張らざるを得ないから頑張るしかない」が正確な表現じゃないだろうか。

セルフマネジメント、セルフケア、コーピング。助けをを求めることや、自分のケアをすること。いろんなやりかたで、自分自身が無理しないでなんとかやっていく方法を覚えて身につけても、現実は待ってくれないこともある。

一人で頑張らない、抱え込まない。それはたしかに正しくて、できればそうしたい。でも、どうしてもできないとき、やっぱりそれでもやるしかないだろう、ってなってしまう。

私も無理したくない、自分でなくてもできることは誰かに委ねたい。がんばらなくてもいい、できなくてもいい。でも、学校も職場も家庭も社会も、がんばることを求めてくる。

「がんばる」という言葉自体に、誰かと比較して、なにかの基準をもって、という暗黙の条件が含まれている。みんな、とても頑張っている。毎朝、起きて朝ごはんを作ることも、学校や仕事に行くことも、すごい。でもべつに、作らなくても、行かなくても、いいときがある。
疲れているなら、気が向かないなら、休んでいい。自分のなかに、違和感を感じたら、それに従うのがたぶん正しいんだと思う。

そんなふうなことを子どもに話してみると、やっぱり「いやそれズル休みだから行かなきゃだめでしょ」と言う。そうだね、学校で教えられたとおりだとズル休みになるよね。でも、ズル休みしても、自分に素直なほうが良かったりする。いつか、どうしても頑張らないといけないときがくるから、そのときに備えて「休むこともできる」ときに休んでもいい。

一人で頑張り続けるのは、限界がある。それでも、そういう状況化でなんとかしなきゃいけない人に、どうやって「休むこともできる」環境を与えられるだろうか。あるいは、「休んでもいい」と思わせられるだろうか。

「いい子」すぎるほどに頑張ってしまう子に、その子が拠り所にしている教科書と違うことを伝えて、響くだろうか。わたしが読んでいる本には、なんだか教科書と反対のことばっかり書いてある。いったん、白か黒かを教えるのが学校だとして、社会に出てだんだんとグレーを学んでいく、という過程が正しいのかはまた別の議論として考えたい。

私もたくさんの場面で、一人で頑張ってきた。でもそれ以外の方法も確かにあったのだと思う。一人で頑張っているときほど視野が狭くなるし、それを指摘されるとさらにイライラする。それが失敗だったかもしれない、ことはあとから気づく。一人で頑張っていることもまずは認めたいし、褒め称えたい。そして、そこに口を挟むのはお節介だとわかっていても、遠慮なく口を出していきたい。

すこしずつ年配者になりつつある私にできることは、自分の失敗をどんどん語ることだ。私もいっぱい一人で頑張って失敗した。成功したこともあるけれど、とても疲れた。どうしたらよかったか、分からなかった。答えを伝えられなくても、そんな話はできる。一見、無駄な話かもしれないけれど、そんな話をできたらいいな、と思う。



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