見出し画像

ままならないこと、できないこと

自分ではコントロールできないものが、怖い。自分にしかできないことがないことが、怖い。どっちも必要な「怖さ」なのだと思う。

毎日の仕事が、予測可能できちんとコントロールできていれば、安定して仕事が続けられる。毎日の仕事が属人的で、その人じゃないとできない仕事があると、その人がいなくなったときにほかの誰かができないし、病気やケガで休んだりもできない。

なにかを予測してコントロールすること、だれにでもできるようにすること。そんなふうにして、世の中はどんどん便利になっていくし、そのおかげでできるようになることも増える。

けれど、予測できないままならないことに、人は出会い、自分にしかないなにかを求めてしまう。旅先の「偶然」の出会いや発見の喜びは、あらかじめ決められたツアーの中で紹介されるものよりも、きっと大きい。ままならないことが起きて、自分の描いていたストーリーが思うようにいかないことに哀しむこともあるはずだ。

私たちは、再現可能なものを求めて、効率的な暮らしを求めているのと同時に、そうした「ままならないもの」や「かげがえのないもの」に恐れたり、希望を抱いたりして生きている。

ホットクックで作った肉じゃがと、時間をかけて手作りした肉じゃが、スーパーで買ってきた肉じゃが。全部、同じ肉じゃがだし、同じ味に近づけることはできる。けれど、それらはそのときどきの「文脈」によって、違う意味を持つし、見た目や味だけでは判断できない価値が生まれる。

私がいまやっている仕事や家事は、きっと他のだれかもやることができるし、もしできないのなら、できるようにする仕組みをきっと作る。そうしないと私は休むことができないから。
でも、「わざと」そこに私らしさや自分だけができる意味づけみたいなものを残したくなることもある。機械的な作業やコピーされた言葉、定型文、そういったものが、どんどんあふれてくる時代だから、ちょっとした人の手による間違いが微笑ましく思えるときがある。

それは、きちんとコントロールされた世界では、正しいことではないかもしれないけれど、私はちょっとつまらない。いつでもおいしいコーヒーが飲める安心も大事だけど、たまに失敗するコーヒーもまたそれでいい。

不確実なことを無くしていく安心と、不確実なものを楽しめなくなる不安。どちらも私は感じるときがある。背中合わせの二つの気持ちを抱えて、曖昧でよく分からないものを楽しんでいる。


読んでいただいて、ありがとうございます。お互いに気軽に「いいね」するように、サポートするのもいいなぁ、と思っています。