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公正とか中立ってなんだろう?

強い人が言う公正・中立を疑いたくなる。それって、きれいにまとめているようで、結局なんの役にも立たないのではないか、と。

多くのメディアは、いつのまにか徹底してこの公正・中立を守ろうとしている。メリットを書くなら、デメリットも書く。賛成意見を書くなら、反対意見も載せる。両論併記、不偏不党。そうやって、真ん中を意識せざるを得ない記事しか書けなくなって、つまらない事実だけ述べたなんでもないのっぺりとしたものができあがる。

そうして作られた記事は、自分自身への批判を避けられる代わりに、自分自身も批判をできない。そして、偏った意見や報道ではなく、そういう中立的な意見が良い、とされてしまっている。

人の気持ちや意見は本当はそんなふうに矯正されて、真っすぐなものにはならない。私はこうだと思うけど、と言いたい気持ち、本当にそれって正しいの?と言いたい気持ち、こんなのおかしい、という気持ち。そういう気持ちは、感情的で偏った意見かもしれないけれど、公正とか中立とかいう言葉に押し殺されていないだろうか。

もちろん、間違った事実に基づいてニュースにするのはダメだし、正しい根拠のないものは、人をだまして追い詰める。けれど、いろんな情報を調べてなにかを発信しようとする試みを、「中立」の名のもとに奪ってはいないだろうか。結局、あなたはどう思うの?どうしたらいいと思う?という声は、もう大きなメディアからは聞こえなくなってしまった。

オリンピックを開催すべきか否か、なんて本当に正しいところは誰にも分からない。コロナ対策が遅れているのか、十分なのか、それだって分からない。原発は必要なのか、沖縄の基地は埋め立て無ければできないのか、政治的な事象は特に、複雑で発信しづらい。だから、自分の声を押し殺して、大声で「せやろがい」と言ってくれる誰かを待っている。

停止=抑止としての「中立」は、「対立の中の中立」の場合、優位な側の一方を利することになる。権力や関心、資金などさまざまなリソースを握った優位者が、そのまま力を維持できるからである。
「多様性の中の中立」の場合には、問題はより深刻だ。停止や抑止が優位な集団や多数者の地位を保全するように働くだけでなく、少数者の不可視化につながっていきかねない。
いずれにしても、問題を抱えた制度や体制が、問題を抱えたまま温存されていくのだ。
『Journalism 2021年4月号 特集 中立・公平・公正』 p.61

だいたい、メディアに掲載されるのは成功した人たちの言葉で、そうした言論空間で発言されることを許された強い人たちだ。

弱い人たちの小さい声は、意図的に掬い取りに行かない限り、そこに掲載されることはない。黙っていると、強い人たちの大きな声だけで埋め尽くされてしまう。それは、一見すると正しいかもしれないけれど、優位な側にとっての「中立」になってしまっている。

私の発信は公正でも中立でもない。私の経験や思ったことを書き、両論併記もしない。有識者でも、知識人でもない私は、偏った自分の意見を決して正しく曲げずに、発信したい。

それが、どこに届くかは分からないけれど、今の社会にどこか閉塞感や窮屈さを感じている人に届いていたらいいな、と思う。


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