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日常に染み込んでいる家事

こんな記事を読んだ。

家事は何のためにやるのか、こういう問いが出てくることがちょっとおもしろい。

わたしの場合、家事は生活にびっしり根付いてしまっているものだから。

いつも綺麗なホテルで、必要最低限の着替えと日用品だけを持って、毎日を暮らしていれば、トランクひとつで家事もせずに生活していけるかもしれない、と思う。とてもミニマルな生活。

でも、実際の生活は、そんなつるつるとした綺麗なものではなくて、もっとざらざらと手触りのあるものでできている。何をするにも、些末なことがこぼれ落ちて、家事せざるをえない。

コーヒーを淹れる。
ドリップパックでも、豆を挽いてもいい。お湯を注ぎ終わったあとのコーヒーのガラを捨てる。それだけで、もう家事だ。

本を買う。
本を片付けておく場所を決める、本棚を買う、作る。整頓して取り出しやすくする。それも家事だ。

何のために家事をするのだろう。

家事を免れて生きることは可能だろうか。24時間働けます、という人は家事をだれかに任せることで、はじめて働くことができる(そんな働き方しないでほしいけど)。その人に「家事」が発生していないわけではない。

誰かがやらなきゃいけない、けれど、誰かは誰でもいいわけでもない。信頼できるひと、任せられる人、または自分。家事はとても私的なものだから。

自分で、自分の家事をする。ついでに家族のぶんまでやっておく。わたしにとっての家事は、この繰り返しの作業だ。それをしないと生活が綻んでいく。

繰り返しの作業に行き着く場所も何もない。そういう仕事も本当はいっぱいある。日々の給与計算、経理、毎年の予算作成。それらはひとつひとつの腕を上げて極限まで極める、というよりは、確実にこなせるレベルまで到達したら、あとはいかに負担を少なく、気持ち的に楽に、スムーズにやるか、ということを考えて、微修正をかけていく類の仕事ではないだろうか。

家事をする人は、プロの収納アドバイザーでも、料理家でも、掃除屋でもない。でも、日常に染み込んでいるものだから、それなりにある程度のところまでで、がんばる。
この程度感が、どんどんレベルアップしている現代社会だから、家事の時間が減らないのだけれど。


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