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『普通は』という言葉の攻撃力

小さい頃から「普通はそうじゃない」「普通はこうする」「普通と違う」という言葉を浴びてきたため、私は『普通は』と言われるだけで身構えてしまうし、自分を全否定されたように感じてしまう。

だから私は自分からは極力『普通は』という言葉を使わないようにしている。

日常生活や人間関係に支障が出るほどではないが、私の感性や考え方が一般的日本人の大多数の人が当てはまる範囲内から少し「ズレて」いるらしく、私より年上の方達から「あなたの考え方はズレている」と責められることがあった。

だから小さい頃から「人と同じじゃなくちゃいけないんだ」と思い込み、仲間外れにされることを恐れて生きてきた。

そうやって嫌な思いをしてきたにも関わらず、自分が多数派の中に入っている時は反対に少数派の人の意見を攻撃してしまうこともしてきた。

攻撃してしまった過去は消せない。
自分が攻撃を受けた傷の痛みは未だにまだ消し切れていないのだから、私が攻撃してしまった方々の傷も残っているかもしれない。

だから今は人を攻撃したくない。

私は国籍も生まれも見た目も育ってきた環境も全てが純日本人。
だから同じようにそれらの背景を持つ人達から「ズレてる」と言われることがとても辛かった。

良くも悪くも同調社会の日本では、「人と同じ」ことを求められる。
例えば。。。

・花束をもらうのが実は好きじゃない

多くの人とは考え方が違うのは知っているから、表面上は喜ぶけど、自分のメンタルが弱っている時には「善意の押しつけ」に感じてしまうこともある。

感性に関しての『普通』って、大多数の人が感じる範囲のもので目には見えないものだよね?
そこに入らないことってそんなにいけないことなのかな?


長子がまだ2歳くらいの頃、話が通じなくていろいろ上手くいかずイライラしてしまう時期があった。

今ならもっと穏やかに過ごせる自信があるけれど、当時の私は長子を怒ってばかりいた。

でも、その原因は全部私にあった。
こどもにちゃんとルール説明ができていなかったのが原因。

数十年間生きてきた私にとっては不文律となっている様々なことは、こどもにとっては「そんなこと知らないし、教えてもらわなくちゃわからない」だろう。

だからこどもには明確に伝えることを心がけてみた。

そうすると驚くほどこどもとのコミュニケーションが楽になった。

そこから私の人への対応も変わったと思う。
だから、例え相手が大人でも相手に求めたことをやってもらえなかった時には、言葉を変えて理解してもらえるように努力するようになった。

そんな状況に慣れていた私がパートを始めてからは、「こんなこと言わなくても分かるでしょ」と言われることが多くなってかなり凹んだりした。

でも、「こんなこと」の加減は人によってまちまち。
ある人の「こんなこと」に沿って作業をすると、別の人の「こんなこと」とは違ってまた注意を受ける。

そんな中で自分を守るために声が大きい人(権力というか、その人が場を支配しているというような意味で使っています)の言うことを優先するようになっていって、とにかく職場が居心地悪くて仕方なかった。

その職場は離職率が高くて、ベテランの人たちと私たち新人たちとの経験年数の乖離が激しく、同じ時期に入った仲間も後から入った新人さんもどんどんやめていってしまった。

残っているのは数人だけ。
だけどその数人も「ベテランさんたちの言うことが人によって違う」と悩みながら仕事を続けているようでした。

会社勤めをずっと続けている人からしたら、理不尽なことの連続があって当たり前でそれが『働く』ってこと。
と言われてしまうだろうから、仕事を辞めようとしたときの本当の理由は夫にでさえ言っていない。

その後ネットで仕事をしてみて思ったのは、外で働くことの時給には「移動時間」「対人関係のストレス」に対する対価が含まれているのか。ということ。

特筆すべきネットスキルを持たない私がネット上で得られる仕事の単価はとんでもなく低く、安定収入を求めるなら外で働くことの方が断然メリットが多かった。

仕事を辞めた理由の一つは「夫の不定期転勤に対応できるため」だったけれど、ネット上での仕事はほとんどできていない。

夫の転勤も今のところ無い。

辞めるのは時期尚早だったとは思う。
だけど、仕事自体に特性がない上に対人関係のストレスがあるのを続けていくのはつらかった。

せめて特性のある仕事を選ぶべきだったんだろうなぁ。
そうしたら仕事自体は楽しめたんだろうなぁ。


話しをもとに戻そう。
「普通」という感性は常に変化する。

だから一昔前の「普通」が、今では「おかしい」ことはたくさんある。

例えば会社によくあった「社員旅行」や「飲み会」。
今ではかなり減っていると聞くけれど、それは今まで苦痛に感じていた多くの人達が声をあげたことによって無くなったのではないのか?
声をあげた、もしくは声を「あげられるようになった」なのかもしれないけれど。

今の学校教育では、多様性を認めよう が当たり前になっていて、人と考えが違っても認め合う教育をしている。
自分がこどもの時にこういう教育方針だったらどんなにうれしかったか、と思う。

私には今の世の中の方が共感しやすくて生きやすいように感じる。

また、私は自分の子育ては、自分が子供の頃にやってほしかったことをやるようにしている。
こども達にとってそれが良いか悪いかはわからない。
完全なる自己満足だ。

だけど、こども達には
「お母さんは子供の頃に〇〇されるのがイヤだったから、あなた達には強要しない。」とか
「お母さんがあなた達に〇〇するのは、自分が子供の頃にこうして欲しかったって思うから」と説明させてもらっている。

私が今の世の中の方が生きやすく感じるのは、共感できることが多いってことで良いのかな?

私たちの世代は今世の中で声をあげやすい世代、だよね?
つまり、私たちの世代の多くが今まではいろいろと我慢をしながらやり過ごし、自分がやってほしかったことをやっているから、世の中の「普通」が変わってきているの?

もしそうなんだとしても『普通は』という言葉の攻撃力を身に染みて知っている私は、極力『普通は』という言葉を使わないで生きていきたい。

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