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“自撮り” と 【自画像】

(徒然草 風に)
心にうつりゆくよしなごとを、そこはかとなく考えていました。

=思い浮かんだことを、結論に導くこともなくダラダラと考えていました。

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身内に ‘男の子’ が生まれてから、親族間で[みてね]というアプリを通して ‘彼’ の写真や動画を共有して楽しんでいます。
見たいと思った人が 見たいと思ったときに、アルバム感覚で ‘彼’ の成長を確認できるなんて、最近のアプリは便利ですね。

それにしても、常にコチラ(私の方)を向いている ‘彼’ に驚かされます。
写真はもちろんですが 動画の場合でも、撮影しているお母さんやお父さんではなく、「カメラ」に愛くるしい視線を送る ‘彼’ は、まだ “立っち” も “おしゃべり” もできないのですよ!。ちょっと末恐ろしくなります。

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私の場合。

カメラやスマートフォンのレンズを向けられると、いまだに どんな表情をしていいのか戸惑ったあげく、少々引きつった顔を撮られてしまいます。
小さい頃から 父はどこに行っても写真をたくさん撮ってくれました。カメラマンの腕は良いのですが「可愛く写りたい!」という “あざとさ” 丸出しのモデルがイケてない(涙。
「私はきっと写真うつりが悪いんだ。実物の方がもっと可愛いはず!」と図々しくも思っていました。

我が家にはビデオがなかったので、大人になるまで自分の動く姿を見たことはありませんでした。初めて動画に写った自分を見たとき、違和感と恥ずかしさで固まりフリーズました。
自分の動作や立ち振る舞い、そして自分の声・話し方は、まるで知らない ‘誰か’ のようであるのに、しかしその時の自分の発言や心情がありありと蘇ってきます。映像に映る ‘誰か’ と私が完全に結びつき、紛れもない自分であることを突きつけられて戸惑うのです。

どうしてこれほどまでに受け入れ難いのかを考えてみると、

① 私が頭の中で思い描く自分の姿
② こうありたい!と望む自分
③ 他人からこう見られたい、こう思われたい!という自分
そして、④ 現実の客観的な実像=写真や映像に映る自分の姿

これらの乖離かいりが激しいことが原因かもしれません。

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私と “自撮り” について。

いまだに “自撮り” は恥ずかしくてできません。
二度と訪れることができない絶景の前に立ち、どうしても記念写真を残したい!と思ったとしても、“自撮り” はできない…と思います。

古い人間なので、
「 “自撮り” = 自分のことが大好きなの? そんな 何だか〈みみっちい〉〈みっともない〉こと(←勝手な思い)は、私のサムライ精神に反する!」
などと声高こわだかに叫ぶのですが、結局 “自撮り” をしている自分の姿を他人に見られるのが嫌なだけなのです(自宅では平気で “自撮り” できます)。
「見た目より内面が大切!ハートが熱ければそれが一番!、他人にどう思われようとも 我が道を貫くのみ!」
そのくせ 実は人一倍見た目を気にする小心者、それが私です。情けなや。

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さて、21世紀の人々と “自撮り” について。

みなさん “自撮り” はお手のもの。
誰でも気軽に写真や映像(=客観的な自分の姿)を撮影して、手元に大量に保存し、いつでもチェックすることができる時代です。
私の基準、
① 自分が頭の中で思い描く自分の姿
② こうありたい!と望む自分
③ 他人からこう見られたい、こう思われたい!という自分
そして、④ 現実の客観的な実像=写真や映像に映る自分の姿
に照らしてみると。。。

幼い頃から、自分の姿が写真や映像で客観的にどう映るのか(④)を知り、それに慣れ親しんで育った21世紀生まれの人たちは、
自分が思い描く自身の姿(①)は ④ に限りなく近いのかも知れません。
また、どのように振る舞えば
こうありたい!と望む自分(②)に近づくのか、
他人からこう見られたいという自分(③)の姿に映るのかを熟知し、それらを自由に操作できるのではないかしら⁈

そんな夢のようなことを日常的に実践しているとしたなら。。。羨ましい限りなのであります。
我が親族のアイドル = ‘彼’ もそんな練達者れんたつしゃに育つのでしょうか。

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さてさて時代は遡って、写真やビデオが身近に無かった時代。

当時は【自画像】を制作するにあたり、 「鏡」に映る自分を見ながら筆を運んでいたのでしょう。
ただ、無機質な機械を媒体とする写真や映像(=客観的な実像)とは異なり、「鏡」に映る姿は、生身の人間の目を通して見る図像であるため、自分が都合の良いように如何様いかようにも誤魔化せるような気がします。私も小さい頃から「鏡」を見ながら、角度や表情を変えて決めポーズを取ってみては「それほど 悪くないかも」と自惚うぬぼれたりしたのですから。

左)パルミジャニーノ『凸面鏡の自画像』1523年-1524年(美術史美術館)
右)カラヴァッジョ『ナルキッソス』1597-99年頃(国立古典絵画館)

その点で、
④ は、× 現実の客観的な実像=写真や映像に映る自分
ではなく、
④ ◯ 現実の図像=「鏡」を通しておのれを探ろうとする慣れ親しんだ自分の姿
となるのでしょうか。

また苦労なくして瞬時に撮影できるカメラやビデオと、
時間をかけて自らの手で線や色を乗せていく【自画像】とではその意味合いが大きく違います。
【自画像】は、
感情=こうありたい(②)他人からこう見られたい(③)という思いだけでなく、
意図=虚栄心や自己愛、地位誇示や作品としての面白味
などを融合させ、自身の技と表現力をもって一つの図像を「創り上げていく」ことになります。
そうだとすれば、
① 自分が思い描く自分の姿
② こうありたい!と望む自分
③ 他人からこう見られたい、こう思われたい!という自分
全てを一致させた、そんな自分の理想形を【自画像】という作品に投影することができるというわけです。
たとえ、
④ 現実の客観的な実像=写真や映像に映る自分の姿
と大きく乖離していたとしても。
だって「芸術作品」なんですから!。

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しかし、しかし(話が二転三転してすみません)。

最近の “自撮り” は、現実の客観的な実像を写し出しているとは限りません。
写真や動画は、加工アプリを〈ちょちょい〉っと操作すれば、顔のパーツや輪郭、肌の色や髪型まで自分好みに変えられて、まるで別人⁈ であるような映像に仕上がります。

また最近の【自画像】は時間をかけて自分の思いを込めて自らの表現力で「創り上げる」ものばかりではありません。
[絵画風]の加工アプリや AI を利用すれば、まるで【自画像】を描いたような画像が、瞬く間に出来上がるというわけ。モネ風に、ゴッホ風に、スーラ風に。。。

つまりいずれも、④を操作することで ①②③の融合形を簡単に「でっち上げる」ことができるのですね。
それが良いか悪いかは別にして、なんだか・・・何だかモヤモヤします。

この記事は、ふと
「 “自撮り” と【自画像】は、似ているようで全く異なる。
しかし違うようで、当事者である本人の心理には実は似通にかよったものがあるのでは・・・?」
と思いつき、少し深掘りしてみよう!と書き始めたのですが、何が何だかよくわからなくなりました。
ロジカルな展開も結論も全くなくて 大変申し訳ありませんでした。

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実は【自画像】というジャンルにはとても興味があり、note にも何回か投稿しています。

専門家が分析する【自画像】についての考察を読み返してみると「さすが!」なのです。
ダラダラ稚拙な言葉で結論の出ない戯言たわごとを投稿しようとしていた自分が恥ずかしくなりました。

まぁ、今日のところは
(徒然草 風に)
心にうつりゆくよしなごとを、そこはかとなく書き綴りました
ということで、どうぞご容赦くださいませ。

<終わり>

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