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仮面の集積・【自画像】を楽しむ!

古代エジプトから現代に至るまで、自画像500作品を年代順に紹介している画集『500の自画像』。(ヘッダーの自画像は左から、ウィリアム・ホガース、ティツィアーノ、アンニバレ・カラッチ)。

1ページに一つ掲載されている個々の【自画像】に解説はありませんが、序文(ジュリアン・ベル氏)は読み応え満点!。
掲載されている【自画像】と見比べながら何度も読みました。

とても面白かったのですが、哲学的で奥が深い…🌀。
しっかり自分の中で消化して言葉に表すことが難しいので、ジュリアン・ベル氏の言葉を引用しながら、素人なりの【自画像】鑑賞を楽しんでみたいと思います。

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我々は彼らの自己呈示をつい信じてしまい、若い頃のラファエロや晩年のピカソが「見つめていた自己の姿」を目の当たりにしていると考えるだけで興奮する。しかし、我々はフィクションを見ているのだと言った方が的確かもしれない。そこでは、鏡による証言に、巧妙に手が加えられているからである

『500の自画像』序文より
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左)ラファエロ・サンツィオ『自画像』(1506年)
右)パブロ・ピカソ『自画像』(1972年)

【自画像】とは、画家が自身の内面を見つめ、生身の自己を表現した【人物画】であると捉えることもできます。
しかし写実的に描かれたラファエロの自画像ですら、生身の自己ではなく、仮面をつけ 衣装をまとい、何らかの “役” を演じているのかも知れません。

ジュリアン・ベル氏によると、
__他人が見る「自分」と、見られている側の自分が考える「自分」には大きな隔たりがあり、画家が「他人に考察され得る」特徴を自己探究しようとしたのが【自画像】。
職業としての画家が、仕事そのものを披露するために選んだ方法としての【自画像】からは、人々を驚愕させ、迎合したいという願望を即座に理解できる__
のだそうです。
ふむふむ、面白いですね。

我々に対峙するものは、仮面を脱いだ500の正体なのであろうか、それともさらなる仮面の集積なのであろうか

『500の自画像』序文より

確かに、描かれた像を巨匠の「仮面を脱いだ正体」そのものとして捉えることはできません。
しかし 手が加えられたフィクションであろうとも、「仮面」をつけていようとも、ラファエロが…、ピカソが…、鏡に映った自分を見つめながらカンヴァスに絵筆をのせている、その姿を想像するだけで私は興奮してしまうのです。

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デューラーが自分自身の中にキリストとの共通点を見出した1500年の間に、自画像は西洋美術の脇役から中心的な存在へと移ったということである。(中略)
デューラーのイメージは、第一義的で中心的なものとしての「個」の定義を明確に打ち出している

『500の自画像』序文より
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アルブレヒト・デューラー『自画像』1500年

やはり、【自画像】史においてもこの作品は大きな意義を有しているのですね。
それまで描かれてきた【自画像】のように、“物語画の中で誰かに扮している” とか、“大勢の中に潜んでいる” 姿ではなく、
「我はデューラー、ここにあり!」「“Albrecht Dürer” is. 」
なのです。
この堂々たる姿…。見ている私が圧倒されます。

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「自分は他人の目にどう映っているのか」ということは、我々がまず鏡に問いかける問題である。つまり、美と年齢についての一般的な基準に照らすと、自分がどのように判断されるかという問題である。ルイス・メレンデスやエリザベト・ヴィジェ=ルブランのような一握りの恵まれた画家は、大衆の賞賛を得、自己の虚栄心を満たすのに十分な素質を持っていた

『500の自画像』序文より
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左)ルイス・メレンデス『男性ヌードを手にする自画像』(1746年)
右)エリザベト=ルイーズ・ヴィジェ=ルブラン『麦藁帽子を被った自画像』(1783年)

この二人は、“美と年齢についての一般的な基準に照らすと”、自分が美しいと判断されることを十分に知っていたのでしょう。その堂々たる出立ちと、優雅に描かれた指先や 迷うことなく我々を見つめる瞳から余裕さえ感じます。
画家が自分自身を売り込むために利用したであろう自画像は、作品以上に画家本人に興味を抱かせるものなのですね。

ルイス・メレンデスという画家…全く知りませんでした。18世紀スペイン最高の静物画家だそうです。この自信に満ち溢れた自画像を見ていると、彼の作品がもっと観たくなります。
もし私が18世紀スペインに住む大金持ちだったら「彼の作品を持って来てちょうだい!」と言ったかもしれません(笑)。

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皮を剥がれた男として自分自身を描いたミケランジェロや生首としての自画像を描いたカラヴァッジオ以降、近代芸術における男性主人公像は、あまり分析的ではなく、むしろ自分自身の相貌を、極端な状況において過激な表現で、メロドラマ風に仕立て上げた。実存的な英雄的資質を希求した彼らには、しばしば愚かさの危険性も付きまとった

『500の自画像』序文より
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左)ミケランジェロ『最後の審判』一部分(1536-1541年)
右)カラヴァッジョ『ゴリアテの首を持つダビデ』(1609-1610年)

美術史上、女性画家は圧倒的に少ない(というか道が閉ざされていた)ため、『500の自画像』に掲載されているのは男性の自画像が大半を占めています。
男性主人公像は、あまり分析的ではなく、むしろ自分自身の相貌を、極端な状況において過激な表現で、メロドラマ風に仕立て上げた” という表現は面白いですね。

女性画家の方が、自分の相貌を分析的に捉えているということかしら。
アルテミシア・ジェンティレスキ、ヘレン・シャルフベック、フリーダ・カーロ。

左)アルテミシア・ジェンティレスキ『絵画の寓意としての自画像』(1635-1637年)
中)ヘレン・シャルフベック『正面を向いた自画像』(1945年)
右)フリーダ・カーロ『ひげネックレスとハチドリのセフルポートレイト』(1940年)

「女性の方が…」という区分することの是非はともかく、女性画家たちは現実を、そして自分自身の姿を冷静に見つめているような気がします。

そういえば…。
今年の夏、ヘレン・シャルフベックを描いた映画『魂のまなざし』が公開されるそうです!以前、彼女について投稿したことがあるので、とてもとても楽しみです。

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レンブラントの200枚以上の自画像の中には、思い浮かぶありとあらゆる動機が存在している。しかし、ユーモラスなものも悲哀感に満ちたものも、あらゆる要因を凌駕して存在するものは、、つまりレンブラント自身の中の意識、を何とかして絵画化したいという意欲なのである。彼がどんなに豊かに自分自身の肉体を再創造し、どんなに熱心に自分自身を奥深くまで見つめても、そうした意欲は飽くことを知らないのである

『500の自画像』序文より
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レンブラント・ファン・レイン
左)『目を見開いた自画像』(1630年)
中)『自画像』(1640年)
右)『2つの円を伴う自画像』(1665-1669年)

200枚以上という驚異的な数の自画像。生涯どれだけの時間、自分の顔を見つめていたのでしょうか。浮き沈みの激しい人生を送ったレンブラントは、何かに悩むたびに鏡に写る自分自身と向き合い、問いかけていたのかも知れません。
“魂、自身の中の意識を何とかして絵画化したいという 飽くことを知らない意欲” を持ち続けた画家 というジュリアン・ベル氏の表現、とてもしっくり来ました!
レンブラントのキャッチフレーズとさせていただきます。

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いやぁ【自画像】というジャンル、面白いですね。
「こんな人だったのか」と画家をイメージするための重要な一資料となりうる【自画像】は、画家の “思い入れ” や “人となり” がギッシリ詰まった「傑作」なのです。
ジュリアン・ベル氏の序文と500の作品から、新たな視点で【自画像】を鑑賞することの面白さを教えてもらいました。
これからも自分が一番楽しめる鑑賞方法を「探究」していきます!

<終わり>

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