見出し画像

ジェリコー・魂の描写と切なる願い

日めくりルーヴル 2021年8月18日(水)
『賭博偏執病者』(1822年頃)
テオドール・ジェリコー(1791-1824年)

ジェリコーの代表作といえばこちら。『メデュース号の筏』(1818-1819年)

画像2

1816年、メデューズ号がセネガル沖で難破。救命ボートに乗れなかった149人は自分たちで作った大型の筏に乗り、12日間 荒れた海を漂流しました。13日目に筏が発見された時には 生存者はわずか15名しかいなかったそうです。
漂流中は、暴力、飢餓、狂気、人喰いがあった…とスキャンダラスな噂が絶えなかった実際の事件を扱った作品です。

ジェリコーは生存者にインタビューして事件を詳細に調査し スケッチします。そして瀕死の人間や死んだ人をリアルに描くため、病院に通い詰めて病人の表情を観察、また死人の手足を持ち帰って写生するなどして、多くの習作を残しました。死体が腐敗していく様も観察したとか…。ものすごい情熱と執念ですね。

【ロマン主義】絵画の先陣を切ったこの大作、2019年秋、ルーヴル美術館で観てきました。

全体が暗くて大きなカンヴァスに、斧、血の象徴である赤い布、錯乱した男性、人喰いに使われた革の袋など、ジェリコーは筏の上で起きた狂気の出来事を全て描いています。その臨場感に少したじろいでしまいました。
人々の奥底に眠る「狂気」。それは誰にでも潜んでいて、生と死が隣り合わせの極限状態に置かれたならば いつでも現れうるのかも知れない…。そんな不安を掻き立てる作品です。

**********

徹底した写実を追求して人間の本質に迫ろうとしたジェリコーが描いた本日のカレンダー『賭博偏執病者』。
ルーヴル美術館で見たかも知れませんが、全く覚えていません。
フランス語のキャプションに書かれた題名を理解できず「年老いた女性の肖像画かしら」と思ってスルーしたのでしょう(涙)。

画像3

題名とともに改めて画像を見ると、とても面白い作品ですね。

この作品は “偏執病者” 連作の一つ。
「偏執病」とは、一般には妄想性パーソナリティ障害の一種です。
この絵を依頼したとも言われている精神科医ジョルジェによると、
“個人の意識全体を襲う古典的な妄想とは別に、人格のある一面のみに影響する病が「偏執狂」であり、この老女は個人の生活経験=賭博に深く関わるタイプ” だそうです。ふむふむ。

最初 題名を見たとき、犯罪者を類型化した「観相学」的な作品なのかなぁと思い、大学で受けた授業を思い出しました。
犯罪学者ロンブローゾの説 “犯罪者の顔には特徴があり、犯罪的気質は、彼らの生物学的性質によって決定づけられている” と板書をノートに書き写したのを思い出しました。藤本哲也先生の犯罪学、面白かったなぁ…。
“こういう顔つきの人は、このような種類の犯罪者になりうる” という説ですね。

しかし、ジェリコーが描いた “偏執病者” の連作は「観相学」とは全く違っていました。

+++++++++++

サロンに出品した『メデューズ号の筏』は、政府批判だ!残酷すぎる!と批判を受け国家の買い上げになリませんでした。落ち込んだジェリコーは、落馬による坐骨神経痛もあり 鬱状態に陥り、1822年頃 パリの精神病院を受診します。その時知り合った精神科医ジョルジュとの縁もあって、精神病患者たちの肖像10点の連作を描いたのです。
ただし、現在確認できているのは 本日の作品を含めて5点のみ(涙)。

画像1

左上)『人さらい偏執病者』(スプリングフィールド美術館)
右上)『ねたみ偏執病者』(リヨン美術館)
左下)『軍令偏執病者』(ヴィンタートゥール、オスカー・ラインハルト・コレクション)
右下)『窃盗偏執病者(ヘント美術館)

うわーっ、こんな肖像画見たことないです!とても興味深いです。美しく着飾った肖像画より、ずっとずっと惹きつけられます。なぜでしょうか?

+++++++++++

賭博偏執病者』は、類型的にこのような顔をしている…、『ねたみ偏執病者』はこのような特徴がある…という「観相学」的なものとは全く違っていますね。

[ジェリコー]
は、先入観を捨てて、眼前にいるその人を観察。そしてその「狂気」や「醜さ」をことさら強調することなくその人の本質を描いています。
一方の[モデル(患者)]当人も、自分が描かれている意識など微塵も持たず、自己の内にある妄想を追っているのでしょう。鑑賞している我々と視線が合うことはありません。
[我々]は題名を知らなければ、描かれた老女や男が心のうちに秘める「狂気」の正体は分かりません。しかし、なんらかの「狂気」がすぐにでも現れうる状態にあることを予感させられて、身震いがするのです。

鬱状態・苦悩の日々を経験したジェリコーは、自分も含めて、誰の心の中にも「狂気」が眠っていることを知っていたのでしょう。患者たちに寄り添って描かれた “偏執病者” たちは、だからこそ私を惹きつける魅力を持っているのです。

憑かれたような情熱で筆を取ったであろうジェリコーが描いた連作5作品。
「狂気」を含んだ人間の魂の描写は、『メデューズ号の筏』でセンセーショナルに表現され、そしてこの連作で完成されたと言えるのではないでしょうか。

**********

決定!。私が選ぶジェリコーの代表作は、“偏執病者” の連作5作品とします!

32歳の若さで亡くなったジェリコー。
私がこれまで note に投稿した “30代で早逝した画家” リスト(ラファエロ、ヴァトー 、ゴッホ、マルク、シャセリオー)に今回ジェリコーが追加されました。
もっともっと描いてほしかったです…(涙)。

そして切なる願いもまた増えました。
所在が不明となっている “偏執病者” 連作の残り5作品が、どこかで発見されますように…。そしていつの日か、連作を並べてじっくり鑑賞できる機会に恵まれますように…。

<終わり>

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?