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緑の中で

森の中で緑に囲まれて一日中ボーッとしていたい。

眼精疲労のせいなのでしょうか、目を閉じると まるで無数のデジタル時計がチカチカ数字を点滅させているような・・・そう、宮島達雄氏のアート作品が脳内に埋め込まれているような感覚に襲われます。
私の体が緑を求めているようです。

緑色の絵画を思い浮かべてみましょうか。
まず思いつく作品は、東山魁夷『緑響く』。

東山魁夷『緑響く』1982年

私が好んで鑑賞する絵画作品(例えば、イタリア・北方ルネサンス絵画)とは全く別物の、まるでデザイン画のような作品。『緑響く』というタイトルも今の私に響きます。
東山魁夷氏、74歳の作品だそうです。
画像検索していると、東山魁夷記念一般社団法人のHPに画家本人の言葉を見つけました。

 一頭の白い馬が緑の樹々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消え去った——そんな空想が私の中に浮かびました。私はその時、なんとなくモーツアルトのピアノ協奏曲の第二楽章の旋律が響いているのを感じました
 おだやかで、ひかえ目がちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるかのようにそれに答えます。
 白い馬はピアノの旋律で、木々の繁る背景はオーケストラです。

『東山魁夷館所蔵作品集I/信濃新聞社』より

何とも素敵な描写。さっそくモーツアルト『ピアノ協奏曲第23番:第2楽章 ナクソス・クラシック・キュレーション』を聴いてみました。

はじめて聞く旋律。感想がうまく表現できない不思議な曲です。何度か聴き直しましたが、まだピンときていません。。。ふむ。

絵画作品『緑響く』には、東山魁夷氏が語る景色=
「一頭の白い馬が緑の樹々に覆われた山裾の池畔に現れ、画面を右から左へと歩いて消え去った」
そのものが広がっています。
ひとまず、東山魁夷氏が描いた空想の世界=この作品の中央に立ってみることにしました。

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深い森の真ん中にポツンと置かれた池の周囲は、しーーんっという音が聞こえそうな静かさ。ひんやりした空気を全身に感じていたら、森の奥から動物や鳥、昆虫たちの息づく気配がしました。
池面は少しの波紋もなく、鏡のように私たちの世界を映し出しています。
そっくりそのまま。
池面に写った私がこちらを見ています。
ふと気がつくといつの間にか私の横に白い馬が立っていました。
きっと馬の姿をした森の精なのでしょう。
池面の世界に住んでいる森の精の姿が、私たちの世界に3D映像として写っているようです。

そしてそっくり対称の世界、上部(現実世界)と下部(池面の世界)を隔てているのは、私が踏み締めているわずかな地表のみ。
少し不安になって足元を確認した瞬間、クラクラ。立っていられないほどの眩暈めまいに襲われました。

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気がつくと、いつの間にか私は池面の中にいます。
そこには誰も何も存在していないようです。水の冷たさ、息苦しさを感じることはなく、しーーーんっという音さえも聞こえない無音の世界。
足元を覗くと、先ほどまで私が居た世界がはっきりと見えています。森が広がり、白馬も見えます。

上下逆転した東山魁夷『緑響く』1982年

しかしそこに私の姿はありません。私はどこに行ってしまったのかしら?
白馬の姿をした森の精が左から右へと歩いて消え去りました。彼は私と入れ違いに向こうの世界に行ったのですね。

私はどこに行ってしまったのかしら?

そんなことを想像しながら、もう一度モーツアルト『ピアノ協奏曲第23番:第2楽章 ナクソス・クラシック・キュレーション』を聴いてみました。

とても心に沁み入るメロディーです。
物悲しいのに、哀愁にひたらせてくれない、不思議な魅力を持っています。

おだやかで、ひかえ目がちな主題がまず、ピアノの独奏で奏でられ、深い底から立ち昇る嘆きとも祈りとも感じられるオーケストラの調べが慰めるかのようにそれに答えます。
 白い馬はピアノの旋律で、木々の繁る背景はオーケストラです。

『東山魁夷館所蔵作品集I/信濃新聞社』より

私には、白い馬が宙に浮いてピアノの鍵盤を軽やかにステップして行く姿が見えました。

・・・・・・・・・・

危ない、危ない。。。

今の私がこの絵の中に入っていくと、戻って来られなくなりそうです。
私の身体が求めている「緑」は東山魁夷氏『緑響く』ではないようです。

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もう少し他の緑を探すことにしましょう。
続きは次回へ。

<終わり>

冒頭の写真は、東山魁夷が『緑響く』のモチーフにした、と言われる長野県芽野市にある御射鹿池(みしゃかいけ)。Wikipediaより借用しました。

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