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心に響くものに詩をのせる・シャセリオー

日めくりルーヴル 2021年3月7日(日)
『二人の姉妹』(1843年)
テオドール・シャセリオー(1819−1856年)

2017年5月、東京都美術館で『バベルの塔』を観たときから美術鑑賞に目覚めた私は、その帰り道にチラリと<シャセリオー展>の看板(国立西洋美術館)を見ました。

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「シャセリオー… 画家の名前? うわーっ、目ぢからのある魅力的な女性。この人がシャセリオーかしら?」と思ったのを覚えています。
美術鑑賞ビギナーの私にとって、興味の対象は 王道(?)の作品ばかり。<シャセリオー展>には足を運びませんでした。
最近 少しずつ興味の対象は広がってきたのですが、今日のカレンダーについて調べるまで、シャセリオーがどの国のどの時代のどういう作品を描いた人なのか全く知りませんでした💦

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4年前の<シャセリオー展>図録を借りてきたので勉強させていただきます!
(展示会に出展された作品以外の画像も投稿しています。)

まずはシャセリオーについてざっくり知りたい!と思っていたら、主催者の挨拶文にバッチリまとめてくれていました😊。

11歳でアングルに入門を許され、16歳でサロンにデビュー、やがて師の古典主義を離れ、ロマン主義の最後を飾るにふさわしい抒情と情熱を湛えた作品の数々を残して、1856年に37歳で急逝したシャセリオーはまさに時代を駆け抜けた才能でした。

アングル(新古典主義)の愛弟子から → ロマン主義(ドラクロワ)へ⁈。
36−37才で早逝した画家って案外いるのですね。私がnoteに投稿した画家だけでも、ラファエロ、ヴァトー 、ゴッホ、フランツ・マルク…。その後どんな作品を残せていたか、と思うと残念でなりません。

シャセリオー芸術から決定的な影響を受けたギュスターヴ・モローやピュヴィス・ド・シャヴァンヌらの作品もあわせて展示し、ロマン主義から象徴主義への展開、そしてオリエンタリスムの系譜のなかでその意義を再考します。

象徴主義モローやシャヴァンヌに影響を与え、そしてオリエンタリスム…そうなのですね。近代美術史においてシャセリオーの果たした役割は小さくないようです。

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国立西洋美術館の主任研究員、陳岡めぐみ先生の論文を発見✨。
『異国の香りーテオドール・シャセリオー』とても興味深く読ませていただきました。私には難しくて理解できない内容もあったので、今回は引用されていた本人・関係者の言葉を中心に、シャセリオーに近づきたいと思います。

▶︎19世紀フランス🇫🇷・ロマン主義の異才、シャセリオー。男性です。

▶︎「この子はいずれ絵画のナポレオンになるだろう」(アングル)
… 11歳で新古典主義の巨匠アングルのアトリエに入門し、絵の手ほどきを受けるようになったシャセリオーは、師にこう言わしめたそうです。
もの凄い例えです(笑)が、天下をとって英雄になる!と理解しておきます。

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① 1835年『自画像』(ルーヴル美術館)
…「美男ではなかったが、粋な魅力があり、飛び抜けて優雅にふるまった」ともいわれるシャセリオー 16歳の自画像です。
② 1834−1850年頃『16世紀スペイン女性の肖像の模写』(個人蔵)
… エル・グレコ作品の模写。素敵✨だったので特別出演です。
③ 1838年『海から上がるヴィーナス』(ルーヴル美術館)
… 師アングルから受け継いだ古典的な格調の高さを保ちつつ人肌の温かさを感じさせる裸体表現。後にシャセリオー自身が石版画で複製している作品です。
④ 1839年『水浴のスザンナ』(ルーヴル美術館)
… ③④はともに1839年のサロンに出品した作品。アングルの弟子の名に恥じない見事なデッサン力が好評で迎えられたそうです。

実は…。新古典主義 VS. ロマン主義と偉そうに書いていますが、素人の私は明確に理解できていません。何となく “しなやかでお肌すべすべ・デッサン力のアングル風” か、“粗いタッチに感情を乗せた色彩のドラクロワ風” かで判断しています。お恥ずかしい限り💦。
という訳で1830年代のシャセリオーは、何となく “アングル風” です。

▶︎1840年。ローマで再会した師アングルと「長いこと話し合いましたが、多くの点で決して分かり合えないと知」ったシャセリオーはまだ20歳⁈。
アングルは「全盛期を生きましたが、現代の諸芸術に生まれた考えや変化を全く理解してい」ない。「僕の望み、僕の考えは全く違う」と語っています。
… 同時代の革新的な文学者たちとの交流のなかで芸術観を育み、シェイクスピアやバイロンを熱心に読むようになったシャセリオー。古代とラファロを絶対神として崇める師アングルとの方向性の違いが、このとき明らかになったのですね。
その一方で「自分はとりわけアングルの弟子なのだ」と、かつての師の下で学んだ誇りを持ち続けていたシャセリオー。素敵です✨

▶︎師との決別により新たな一歩を踏み出したシャセリオーの言葉がこちら。
「つまらぬもの、粗野なものは決して描かないこと、自分の声を聴き、自分だけを常に信じること。私について感じることだけが常に真実だ。それは私が耐え忍んで獲得した経験の賜物である」
…「心に響くことのみを描くこと」と、「現実の中に詩を見出す」ことを決意した若き画家。芸術家としてどんな道を歩んでいきたいのか、決意の現れですね。

そんなシャセリオーが描いたのが本日のカレンダー作品 1843年『二人の姉妹』(ルーヴル美術館)。ルーヴル美術館を訪れたときの “よく知らないけど気になる一枚” にリストアップしていました✌️。

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シャセリオーを生涯支え続けたのは彼の兄弟姉妹。長兄フレデリックは弟の才能を開花させるためにあらゆる努力を惜しまず見守り続ける庇護者となり、姉のアデルと妹のアリーヌはシャセリオーのために長い間モデルを務めたといいます。

そんな姉妹をモデルに描いた本作はサロンに出展され「意図的に醜く描くことを選んでいる」といった批判も受けたそうです。しかし、ドガは深い感情を込めて話し、ギュスターヴ・モローはこの作品への称賛の念を時を超えて明確にしておくため、その複製画を彼の美術館の入り口に掛けたそうですよ。
私には、寡黙ながら画家を見つめる力強い姉妹のまなざしが印象的な作品。抒情と情熱を秘めた独自の世界観を感じさせるとても魅力ある一枚に思えます。抑えた緑色と鮮やかな朱色が美しいですね。

▶︎次第にドラクロワに傾倒し、豊かな色彩と異国風のテーマに染まっていったというシャセリオー。1846年にアルジェリアを訪れ、旅から生まれた数々の東方の主題を表すのにふさわしい画風に変わっていきました。
アルジェリアでのスケッチを見ると、ドラクロワのモロッコ旅行のスケッチとタブって見えました。

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左)1846年『床に座るアルジェのユダヤ人女性』(メトロポリタン美術館)
… 余白には、衣服や装飾品の色、素材や布感などがメモされているそうです。
右)1846−1856年『コンスタンティーヌのユダヤ人女性』(エティエンヌ・ブレトン・コレクション)
… 油彩とは思えない柔らかく薄い筆運び、そして女性の目ぢからが半端ないですね。

彼のアトリエには、1846年の旅で入手したであろう北アフリカや中近東の剣や武具、そして色とりどりの異国の衣服が、死去するまで飾られていたそうです。

ちなみにドラクロワのモロッコ旅行のスケッチはこちらで。

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投稿が長くなってきました💦。シャセリオーの最後の10年に全く触れていませんが、そろそろ締めなければ…。

<ルーヴル美術館展>19世紀フランス絵画(2005年 横浜美術館)の図録にピッタリくる文章を見つけました。

線とデッサンと並んで感情と色彩の表現を十分に習得することから出発して自身の絵画論を打ち立てたシャセリオーは、アングルとシャヴァンヌ、ドラクロワとモローとの間をつなぐ主要な絆…。

ふむふむ。<シャセリオー展>とは少し違う解釈もあって面白いです。
今回の投稿では、シャセリオーが果たした役割「ロマン主義から象徴主義への移行期の決定的な一段階」には辿り着けませんでした😭。モローやシャヴァンヌについて投稿をする時に “必ず抑えるポイント” としてメモしておきます。

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最後に。
シャセリオーが素描に書き込んだ言葉をご紹介します。

▶︎「貧弱なるものは何であれ、縮こまるものは何であれ避けること、…常に豊かで厚みを持たせること、マティエールに陥ることなく、常に人の心を衝くこと」(1840年頃素描に書き込まれた創作メモ)
… 最近ちょっと縮こまり気味な私がハッとした言葉です。メモしておきます!

▶︎「やせ細らないこと、貧弱で愛情のないモデリングをしないこと、すべてを素朴なものにすること、しかし全体的なマッスの大きさのなかに包み込むこと」(1855年頃の素描の余白に繰り返されている言葉)

 激動の19世紀フランス、多くの刺激や影響を受け作風を変化さていったシャセリオーは、もともと身体が丈夫でなかったといいます。
苦悩や葛藤の中で守りに入ってしまいそうになる自分を常に戒めていたのでしょうか。心に響いたものに自らの詩を乗せて 観る人の心に届く作品を描くために、自分自身の在り方・生き方を見つめ続けた画家なのですね。

今回 少しだけシャセリオーについて知ることができました。
いつか彼の画風や作品自体にもっと迫れるようになりたい!と、日々の努力を誓って締めさせていただきます。

<終わり>


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