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「私たちの時代はそれが普通だったよね」症候群


「私たち(俺たち)の時代はそれが普通だったよね」
「昔はもっとひどいことがあったんだから」
そして、「今の人はいいよねえ」。

こういう言葉をネットでもリアルでもよく聞く。たいていは差別やハラスメント、いじめなどの行為が表沙汰になり、問題視されたり糾弾されている際に、その話題への反応として目にすることが多い。半分は驚きながら、半分は笑い、口を歪ませながら「でも、」という前置きから始まることもあるだろうか。

近年、日本でもようやくハラスメント問題や不当な差別、人権侵害や法令違反に対して焦点が当てられるようになった。有名人のスクープや裁判沙汰まで行くなど、人目に付きやすい大きな問題だけではなく、身近な問題にもフォーカスされるようになったのが最近の特徴だろうか。会社組織や学校など、これまで集団内の圧力で外部に漏れることのなかった暗黙のルールや処遇についても、もはや隠し通せるものではなくなってきている。SNSなど個人が情報発信できるツールが用意され、これまで草の根レベルで人々が続けてきた問題提起が学者や一部の論客を超えて、一般層にまで広がってきたのも大きいだろう。

日本に限っても、この数年で急速に新しい価値観・新しい意識が設定され、広がり続けているように見える。それは非常に好ましいことで、これまでかけられてきた圧力や障害、目に見えぬ拘束を取り除かれ、誰しも本来手にしているはずの自由のもとで暮らせる日々がくることを意味する。ようやく息ができる酸素の存在を遠くに感じ、私たちはそれがどこにあるのかと首を巡らせる。

しかし、問題が一つある。白が黒に変わり、合法が違法になって新しい価値観が登場したときに、私たちはすぐに自分の頭を切り替え表面上は納得して見せるが、心の奥底にどこか承知しかねる部分がある。自由と新しいスタンダードを、当たり前のように差し出され甘受している自分より下の世代や同輩者を見たときに感じる、ある種のまぶしさと一瞬の苦しさ。そして、その次に口がいつの間にか開いてこう喋っている。「私たち(俺たち)の世代はそれが普通だったのにね」。

「私たち(俺たち)の世代はそれが普通だったのに」と人が言うとき、それは新しいスタンダードを拒否し、自分の人生へ関与しないようにしているときだ。表面上は新しい価値観を受け入れているように見えて、実は拒絶している。何かの問題が表面化し、是正され救済される人がいるということは、その裏側でこれまでずっとその価値観やルール、設定のもとで黙って飲み込み耐え忍んできた人たちがいるということだ。そして、現代のように問題であると認識され、周囲に助けてもらえることもなく、「普通」「常識」「そういうもの」という言葉とともに無言でいることを強いられていた人たちが。これは、そういった過去に被害を受けてきた(または加害者だった)人たちが、今を切り捨てるために言う言葉だ。

事態が過去に起きていて、「いま」声をあげることができない人は、身体中に火薬庫が仕掛けられているのと同じだ。何か一つを「あれは本当は問題だったのだ」と認めたら、自分の過去のあらゆるライフストーリーの一つ一つが塗り変わってしまう。

それは例えばこういうこと。ある人は言うだろう、自分は厳しい業界の独特の上下関係やルールの中で頑張ってきたが、それは社会で生きるために必要なことで彼らは自分のことを一生懸命教え可愛がっていただけで、自分の経験は大切な資産だと。またある人は言う。私は〇〇であるということで、からかわれたりジャッジされたりネタにされることもあったけれど、それは職場や家庭のコミュニケーションの一つであって、それをうまくこなせて一人前ってものですよ、自分の強さの一つです、と。もし、それが問題であったと認めてしまったら、そういう「強さ」「したたかさ」「勝者」のストーリーが、ただの「不当にいじめられ、搾取され、暴力を振るわれて、ずっと無視されてきたにも関わらず、それを当たり前だと自分に思い込ませていた被害者の物語」に一変してしまうのだ。

とてもではないが耐えられたものじゃない。だからこそ、人は過去の常識や普通に話をすり替えて目をそらそうとする。そして、「私たち(俺たち)の世代はそれが普通だったのにね」とうそぶく。目の裏側に見えている過去の記憶に目をやりながら、その痛みを感じさせないように口を歪ませて笑ってみせる。こんなのなんでもないのに今の人は大げさだよね恵まれているよねと言わんばかりに笑ってみせる。これはそういう症候群なのだ。

それでは、自分の身に降りかかったことは問題だったと認めるのはどうだろう。それは茨の道だ。

まず、過去の出来事を問題化することには障壁が多い。糾弾する相手がもういないこともあるし、昔よりは権力が弱体化してしまっていることもある。もし言っても「昔のことを今さら」と無効化しようとされるだろう。周囲からはみっともない許してあげればと示唆される。急進的で「いま」の問題に積極的な人たちも、過去の問題に関しては追及の手を緩めることもある。時代のせいだよね不運だったねの一言で黙らされてしまう。怒りをぶつけるべき相手を見つけづらいし、罪を問いにくく、そして孤立してしまう。仮に同情してくれる人はいても、過去の出来事の問題を解消したり助けたり歴史を変えることはできないからだ。

他人への怒りに加えて、自分への怒りの問題もある。自分はなぜそのような仕打ちを受け入れてしまったのか?自分にも非があったのではないか。もっとうまくかわしている人もいるし、自分にも落ち度があったのかもしれない。戦えなかった自分の非力さに、体の底から震えるような怒りが出てくる。

勇気を出して過去を見つめる道を選んだ人に伝えたいのは、あなたは何にも悪くないということだ。多少のコミュニケーションの欠損や行き違いがあったとしても、それがゆえに問題が見過ごされたり無効化されていいなどということはない。そして、もっと良い対処法があったかもしれないといま思うなら、それは生き延びてあなたが前進したからだ。もう少し高いところから物事を見たり、ほかから学ぶ力を身につけたから、そう思えるようになったのだと思う。その時はその時で自分ができる限りのベストを尽くしていたはずだ。たとえ下手くそでも。

そして、過去のことであっても、どれだけ古い出来事でも憤慨したり悲しんだり怒ったりしてもいい。出来事が過ぎ去ったからといって感情が薄まるとは限らないし、その時の衝撃が去ったからこそようやく後に感じられるものもあるはずだ。大人になるとか物事を受け入れるというのは、自分で整理がついたときに言うべきセリフで、胸のうちにあふれた感情をごまかすために使う言葉ではない。ましてや他人からのアドバイスとして提供された言葉なら、聞き流していい。自分の気持ちが収まらないなら、いつまで経っても怒っていてもいい。

なぜならこういうプロセスを踏まない限り、人は自分の感情に蓋をして現状を否定し、他人を同じような苦痛にあわせるような言動をしてしまうからだ。さすがに旧態依然とした行動を全面的に推奨しないだろうが、「私たち(俺たち)の世代はそれが普通だったのに」といって、過去を温存するようなメッセージを発してしまう。

その言葉を聞いた周囲の人は、なんとなくその人の憎悪と傷つきを感じ取る。そして、本当はその人が新しい価値観を受け入れてないことを言語外のメッセージとして受け取る。人によっては萎縮したり、新しいスタンダードを受け取ることに圧力すら感じることもあるだろう。どんな基準も法令も価値観も、ルールとして設けられているだけでは機能しない。それを守る人がきちんと受け入れていないと、「表面上は一応は納得しているけれど本当は許してないし認めてません」という裏腹な状態になってしまう。これでは新しい価値観のもとの社会であり組織であると言えないだろう。事実、表では自由と平等と前進性を歌いながら、どこか硬直している組織や関係性はこれに該当していることが多い。

時代は変わり始めている。これからもものすごい速度で意識や価値観は刷新されていくだろう。若い世代であっても自分より下の世代がより自由な環境や標準を手にすることが多くなる。だから、誰しもこの問題に無関係ではいられないはずだ。

過去を変えることはできないが今を選ぶことはできる、というお決まりの言葉がある。そう、選ぶことができる。症候群にとどまり、知らぬ間に加害者の側に回ってしまうか、それとも自分の傷に向き合うか。勇気を出して後者を選んだ人には自分の過去の葬式が待っている。それは辛く悲しく苦痛に満ちているが、その選択を選ぶ人が多くいて、そして受け止められる社会でいて欲しい。なぜなら、新しい価値観の社会で生きるためには、ちょっとした、または大きな喪が必要だからだ。

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