Gのレコンギスタ 進撃の巨人 比較
以前、私はnoteでGのレコンギスタについての記事を書いた。
以下がそれのリンクである。
以前も書いたのに何故またGのレコンギスタについて書くのかというと、昨年の8月に 劇場版『GのレコンギスタV』 「死線を越えて」が公開されてことをもって劇場版『Gのレコンギスタ』が完結したからである。
さらに今年の3月にGレコのムック本であるGのレコンギスタ メカニック&ワールドが発売された。また、1月にはサンフェスで「Z」、「∀」、「Gレコ」を2日間で上映した。これは三作品のもつ情報量のエネルギーで観客を殴るようなものである。
今月の2日にはkino cinéma神戸国際にて劇場版『Gのレコンギスタ』五部作が一挙見上映された。
そのため、Gのレコンギスタについて記事を書きたくなったのだ。
あらすじ
宇宙世紀の遙か未来であるリギルド・センチュリー(R.C.)。
リギルド・センチュリーでは地球と宇宙をつなぐ軌道エレベーター、キャピタルタワーが存在しており、エネルギー源にあたるフォトン・バッテリーを地上に運んでいる。
R.C.1014年に事件は起こった。
キャピタルタワーの保守・点検をするキャピタルガードの候補生である少年ベルリ・ゼナムは実習中に宇宙海賊の襲撃を受ける。
ベルリは学友・教師と連携して宇宙海賊を撃退するが、宇宙海賊を名乗る少女アイーダにベルリは一目ぼれをする。
アイーダの乗っていたGセルフ、レイハントンコードやアイーダを追いかけるベルリの旅が始まる。
Gのレコンギスタの時代性
まず、Gレコのもつ時代性について考える前に製作年数をまとめる。
実際にかかった製作年数
テレビ版Gのレコンギスタは2014年10月から2015年3月まで放送された。しかし、放送期間だけでGレコの時代性を考えるのは早計である。
当たり前ではあるが、アニメは構想から製作、公開までに長い時間がある。
また、構想から製作までの流れには会議があるため構想と異なったりするかもしれないが、この記事では構想を製作紀元1年とする。
『アニメを作ることを舐めてはいけないー「G-レコ」で考えたことー』(2021年3月出版、出版社KADOKAWA、著者 富野由悠季)を参照しよう。
以下、この著作を「アニメを作ることを舐めてはいけない」と表記する。
この著作は富野由悠季氏がGレコを製作するにあたって、読んだ本やアニメでの批判に取り入れた社会情勢やニュースなどが書かれている。
著書ではGレコの企画書を提出したのが2010年2月20日から3月8日までと書かれている。
富野氏の脳内であったり過去の考えを誤りなく理解することは不可能であるから、企画書を提出した2010年をGレコの製作紀元1年とする。
つまり、Gレコの製作年数は2010年から2022年までの12年間であると言える。
同時代を歩いた作品
続いては同時代に発表されて終了した作品を押さえていく。
それは進撃の巨人(作者 諌山創 出版社 講談社)である。
まず、進撃の巨人の連載が開始された年と終了した年を押さえる。
進撃の巨人の連載時期は2009年9月から2021年4月である。
つまり12年にわたり連載されていた。
進撃の巨人では人類は都市を壁で覆うことによって巨人たちから身を守り、壁の外や巨人の謎を探っていくというのが壁内編までの大まかな物語である。
そして、壁の外から出たマーレ編以降はマーレで差別されているライナーやガビなどのエルディア人の物語であったり、壁の外の人類を大量虐殺しようとするエレンが描かれている。
Gレコと進撃の巨人の共通点と差異
宗教とインフラ
Gレコと進撃の巨人の共通点と差異を今から洗い出していきたい。
Gレコでは人類はキャピタルタワーの下でフォトン・バッテリーと水、空気を無償で支給されて生活している。つまり、ベーシックインカムが成立している社会であるということだ。
一方、進撃の巨人では人類は壁の中に都市を建設していて、そこでは人々が商売を行ったり作物を植えたりしている。ベーシックインカムは存在していない。
ところが、この二作品の共通点はキャピタルタワーと壁が宗教的権威かつ生活のインフラを支えていることだ。
Gレコの世界観では地球での重工業はスコード教によって環境保護のため禁止されている。また、人肉食を禁止したり、フォトン・バッテリーを運搬するカシーバ・ミコシやキャピタルタワーなどの建造物を傷つけてはならないといったタブーがGレコ世界を支えている。
Gレコではタブーをベルリが最初から疑問視していないため、秩序の象徴であり好印象だ。
進撃の巨人の世界観ではウォール教と王政が壁の中を支配していた。
ウォール教では壁に触れたりしてはいけないというタブーがあり、民衆からの支持を受けている。
また、人類は壁が無ければ巨人に喰われて生活できないため、壁はインフラであるともいえる。
進撃の巨人ではエレンやハンジなどと敵対・自由の敵となるため、抑圧の象徴であり悪印象だ。
このようにキャピタルタワーと壁は好悪の違いはあれど宗教的権威かつ淫婦であると言える。
世間では宗教=危険とされているように富野氏が監督した「機動戦士Vガンダム」(93年放送)ではザンスカール帝国がマリア主義というカルト思想を掲げて戦争を起こした。Vガンダムの先見性はカルト宗教の思想がキリスト教(マリア)とインド哲学(シャクティ)が融合している点にある。
95年に地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教の思想のルーツはブラヴァツキーから始まる神智学まで遡る。神智学を大まかに説明すると進化論とキリスト教と東洋思想が融合した思想である。オウムのイデオロギーに神智学思想が影響を与えたこととテロリズムを引き起こしたことを予見したと言える。
Gレコは遙か未来の物語だ。
それにも関わらず迷信的といわれる(我々が勝手に思い込んでいる)宗教が何故世界を支配しているのか。
その考察を書きたい。
カルト宗教の隆盛によって宗教=危険といわれるが、宗教はそもそも秩序をもたらすためのものである。
このように近代は大戦争とそれに動員される危機と死や内面が私事化されてしまうことを孕んでいる。
近代は宗教の持つ倫理観や公的意識を迷信と切り捨ててしまったのだ。
スコード教は科学の力によって近代を超克したのだと考えられる。
技術革新(科学の発達)によってモノを生産するのに必要なコストは低下する。
何故ならば最大のコストは労働力であるからだ。
現在では日本の労働力よりも安い東南アジアの労働力を求めて、海外に工場を移している。
このように技術革新によって安価になっていけば、多くの人が成果物にアクセスできるようになるだろう。
だが、資本主義社会(これも近代になって誕生した)ではアクセスできるのは、裕福な者のみだ。
一方、Gレコ世界では大戦争と環境破壊によって人類存続の危機にあった。
科学者たちは考えた。
少ないパイを奪い合っているからこそ戦争が起きた。
だから、パイの奪い合いを抑制しよう。
技術は発達しているから安価で作れるし、ブラックボックスにしてパイの奪い合いが起きないようにしよう。
その代わり、生活必需品を皆に無償で支給しよう。
こうしてスコード教が生まれたのだと思う。
技術革新によってモノが安く簡単に手に入るのは絵空事ではない。
今ではインターネットの誕生によって情報が簡単に無料で見られる時代になった。むしろ、無料で簡単に見られるため情報の正確性が担保されないという問題が発生している。
また、田舎であってもインターネットさえつながっていれば、通販で商品を購入することはできる。アマゾンは離島にドローンで商品を販売するサービスを行っている。
今の時代は昔に比べて情報やモノを入手することが簡単になったからこそ、スコード教は生まれたのだと思う。
自由/世界を望むエレン/ベルリ
続いては主人公の考察をしていこう。
エレンは自由を求めて壁の外から来たという父親の謎を追い求めることになる。
調査兵団は多大な犠牲を払いながらもシガンシナ区で決戦を行い、獣・鎧の巨人を撃退かつ超大型を奪取することに成功する。ウォールマリアも取り戻して壁の外までたどり着くと一行は海を見つける。
喜ぶ一同だったがエレンだけは悲しそうな表情をしていた。
また、エレンは地ならしの前に子供を助けるが、外の世界は自由だと思ったが実際には人が自分たちのように生活していてがっかりしたと言っている。
ベルリについて考察をしていこう。
アイーダに一目ぼれをしたベルリは人質としてアイーダの乗る海賊艦メガファウナに乗ることになる。
途中、自身とアイーダが姉弟だと分かり、望まぬ形で失恋してしまう。
恋人として無理なら弟として可愛がられたい一心でアイーダにビーナス・グロゥブで宇宙にある夢を見つけてほしいと願うベルリだったが、ビーナス・グロゥブに行くと海があって人々は自分たちと同じように生活していた。
また、宇宙で暮らしているせいで突然変異を起こしているという事実も知り、絶望するベルリであった。
両者の共通点は個人的な問題で世界の謎を探る冒険に出たが、待ち受けていた場所には自分たちと同じように人々が生活を営んでいて、何なら内輪もめを起こしているという身もふたもない現実だったことである。
差異は積極性の有無である。
エレンは炎の水や氷の大地、砂の雪原を見たい、自由を求めるといったところから積極的な主人公だ。
エレンは母親のカルラが巨人に喰い殺されるよりも前から調査兵団に入りたがっていたし、自由に重きを置いていたからこそ地ならしをしたのだと思える。
一方のベルリは草食系だ。
ベルリは母親がキャピタルタワー運行長官であるため、本人もキャピタル・ガードに所属してフォトン・バッテリーの支給に携わりたいと思っている。
つまり、公務員志望の学生であるわけだ。
ベルリは温厚な性格であり自身の感情をあまり表に出さなくて他者との軋轢を生むこともあまりない。
クンタラのガールフレンドであるノレド・ナグがいるが、彼女には少し無神経に振舞ったりするし、クンタラが引っ叩かれたりしても気にしていない様子の少年だ。
この差異をベルリの視点から考察していく。
ベルリは現代日本の草食系男子か?
ベルリ・ゼナムが何故現代日本の草食系男子といえるのか。
その考察をしていこう。
ベルリ・ゼナムは保守的な若者である。
ベルリは母親がキャピタルタワーの運行長官であるため、本人もそれに近い職種であるキャピタルガードに就職することを目的にしている。
ベルリは母親が公務員であること、自身も公務員志望であること、上流階級であることから、倫理観がこの作品において他のキャラクターたち(ナルシストのクリムやルサンチマンと上昇志向を抱えるマスクなど)よりも高いといえる。
一方、現代の若者も保守的だといわれる。
若者は保守化しているという世代論は正確ではないが今回はそれで通す。
若者は公務員を志望しているといわれる。
これらの記事によれば公務員は安定しているという考えから志望していると考えられる。
つまり、若者は生まれたときから経済の繁栄を知らずに、日本経済の停滞だけを知っているため、安定志向になり公務員を志望しているのだとこの記事や若者論からいえる。
また、恋愛や結婚の価値観についてもいえるのではないか。
ベルリはアイーダに一目ぼれをして追いかけるも自分たちが姉弟であると判明する。
その後は一人の時に感情を爆発させるも周りには弟として甘えていた。
ベルリにはガールフレンドのノレドがついていたが、彼女にはお尻を触ったり甘えたりするもののアイーダへの感情よりは弱く感じた。
それにノレドに自分からアプローチすることはないと感じた。
最近、若者の恋愛離れが注目されている。
20代男性の4割がデートしたことがないと内閣府は2022年に発表した。
若者の恋愛離れについても、そもそも恋愛できない人は過去にある程度いてお見合いなどで隠されていただけではないのか、と思うのだが今回はこの発表を前提として考える。
この恋愛離れについては、娯楽が増えたこと、価値観の多様化、賃金の低下などが考えられている。
そもそも恋愛の肉食系・草食系の定義とは何なのか。
自分に気のある人にアプローチすることは肉食なのか、草食なのか。
アプローチで結果が出なければデートにはありつけないわけで、振られた人を草食と断ずることは出来ないのではないのかと私は思う。
ベルリは友人や教師(ノレドやルインやマニィ、デレンセン)からの評価を気にしたり、キャピタルタワーでの勤務(地元での就職)を志望したり、礼儀正しかったり、スコード教に従順という観点から保守的である。
このマイルドヤンキーに近い点は現代日本の若者に似ているかもしれないが、マイルドヤンキーは結婚が早いため肉食系かもしれない。
考察によって共通点はあるものの差異が大きいことにより、ベルリが現代日本の若者と解釈することは出来ないと結論できた。
そもそもベルリがキャピタルガード志望なのは全体の奉仕者となるためだ。そこには安定志向といった打算や損得は存在しない。
現代日本人はスコード教のような宗教が習慣やモラルと一体化していない。
恋愛面に関してはノレドに対してはアプローチせずにキープする打算的感情は若者的だといえなくもないが、若者はアイーダに惹かれないのではないのかと思った。
ベルリ・ゼナムは分からないやサイコパスと批判されることもあるが、ベルリを創作するにあたって富野氏が若者をイメージして作ったことは想像できることだ。
ただ、ベルリ・ゼナムというキャラクターを分析しているとGレコは楽しめることには変わりない。
フォトン・トルピードと地ならし
フォトン・トルピードは反物質を放出して対消滅によって物質を光に変える兵器のことだ。テレビ版では22話、劇場版では4部で使われた。特に劇場版のフォトン・トルピードは衝撃的で搭乗しているパイロットごと光に変えられるシーンは視聴者のトラウマとなったはずだ。
地ならしでは壁の中に眠っていた巨人を目覚めさせてパラディ島以外の全ての命を虐殺した。
紅蓮の弓矢の歌詞とリンクする部分や読者やエレンが助けた子供たちがエレンの手によって殺される描写はトラウマを残したはずだ。
共通点は主人公が大量虐殺を行ったことだが、Gレコでは自身の行いに恐怖したが、進撃の巨人では虐殺シーンと同時に自由を謳歌するエレンが描かれている。
結論
Gレコと進撃の巨人の共通点は製作年数、作品を代表する設備や施設が宗教的権威かつインフラであること、冒険の果てに辿り着いた世界の真実に絶望すること、主人公が大量虐殺をするといった点で共通点があった。
このことから、Gレコを希望と老人から若者へのメッセージ、進撃を絶望と若者から老人への反抗としてとらえるとコインの表と裏のように思えるのだ。
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