チェルノブイリ 感想
3月11日に東日本大震災から12年が経過した。
東日本大震災で実際に被災された方、テレビやラジオ、新聞で震災を知った方がいる。私の地元も東日本大震災で被害を受けているが、住民たちは現在でも海の近くで暮らしている。
だから、私は地震によって引き起こされた津波が街や土砂、車を飲み込んで黒く濁っていく様子や福島第一原発が水蒸気爆発を起こした様子をテレビで知った。福島第一原発で水蒸気爆発が起こったというニュースを見たときは衝撃的過ぎたために現実感を感じられなかったし、事故の評価がレベル7だと知ったときは驚いた。
この震災の被害や原発問題は今でも続いている。
そして、私は事故の評価がレベル7であるチェルノブイリ原発事故を描いたドラマ「チェルノブイリ」を見た。
今回はその感想を書いていく。
初めに
現在、ロシアのウクライナ侵攻が起きているため、ウクライナの各都市の読み方をロシア語表記からウクライナ語表記に変更している。
そのため、本記事でもロシア語表記のチェルノブイリをウクライナ語表記のチョルノービリに変更したほうが良いかもしれないと思った。
しかし、ドラマのタイトルがチェルノブイリであるし、公式でも訳を変更するといった動きを確認していないため、ウクライナ語表記ではなくロシア語表記のチェルノブイリとする。
あらすじ
1988年4月、科学者のヴァレリー・レガソフはテープを残して自殺する。
舞台は1986年4月、現在のウクライナのチェルノブイリで原子力発電所の4号炉で爆発事故が起きた。
火災の消火活動のため被ばくしていく消防士たちや炉心に注水したり現場を見に行ったために被ばくする作業員たち、事故現場を見物して被ばくする民間人たちなど何も知らされずに被害が広がっていく。
そして、翌日レガソフに事故の収束のため招集がかかった。
このドラマを視聴する態度
まず、先に説明するがこのドラマは実話を基にしたフィクションである。つまり、ドキュメンタリーのように実際にあった事実や事件に虚構を加えずに製作した映像作品ではなくて、ある程度虚構を加えて製作したドラマであるということだ。
その虚構はこの物語においてホミュック博士として表出される。
そのため、このドラマを見て原子力やチェルノブイリ原発事故を知った気にならずに、本やドキュメンタリーなどを調べていくことが大切である。
これは歴史に興味を持った者に最低限要求される倫理性だろう。
感想
このドラマを視聴した感想は不謹慎ながら面白かったことである。
どういうところが面白かったと言えば、まず構成であろう。
この物語では事故に翻弄されて命や大切な者を喪っていく人々、事故の事情を隠ぺいする者、事故の解決及び収束に奔走する者のいろいろな視点でドラマが紡がれていく。
事故の悲惨さや被害は数字の形で表れるが、群像劇としてドラマを紡ぐことによって被害者の数を単なる数値ではなく、血肉の通ったものとして視聴している我々は受け止める。
それは消防士として消火活動を行ったワシリーとその妻リュドミラや鉄橋に集まった一般人たちや放射能汚染された土壌を掘った炭鉱夫たち、何も知らされないまま作業させられた作業員たちに訪れた惨劇だ。
もしもレガソフやシチェルビナ、ホミュックの視点だけで物語が進んだとしたら、被害者の人生や苦痛が描かれずに被害を単なる数値としてとらえられただろう。
また、物語のエンディングにおいて物語の登場人物のその後を事実だけを淡々と説明する態度も良かった。
登場人物に感情移入することは物語に大切な要素だが、このドラマは事実を基にしたフィクションであるため、実際の事故をエンタメ的に消費させることにつながることになる(このドラマを視聴する態度を参照)。
この物語のテーマは嘘と代償である。
視聴者がこのドラマを見て全てを事実だと思うかもしれない。
だが、ドラマであるため、ある程度の脚色もある。
視聴者がこの作品の黒幕にあたるディアトロフなどの隠ぺいした者たちに堕してしまうかもしれないのだ。
エンディングの淡々と説明しているシーンは、制作陣が視聴者の頭を冷やすために作ったと思う。それこそが制作陣が物語の強度を理解しているあかしだ。
嘘と代償とは
この物語では冒頭のシーンでレガソフが嘘と代償について語る。
また、クライマックスの法廷シーンでも噓と代償について語るため、この物語のテーマだろう。
噓と代償はソ連だけにとどまらずに、この作品を視聴している我々にもその言葉の刃先を向けているのではないだろうか。
ソ連の嘘と代償は原発事故の隠蔽とそれによる被害の拡大、そして事実を言っても弾圧される社会そのものだった。
それをレガソフは真実はイデオロギーや宗教などを気にしないと言った。
我々はこのソ連の隠蔽を笑えるだろうか?
いや、笑えないだろう。
前述の感想で書いたようにこのドラマは事実を基にしているために、視聴している我々がろくに原子力を調べもせずにチェルノブイリを分かった気になるかもしれない。
つまり、事実を知らずに(知ろうともせずに)エンタメとして消費する我々はディアトロフよりも悪質ではないのか。
つまり、視聴者の嘘と代償は、知ったかぶりとエンタメ消費により事実を調べなくなることではないだろうか。
終わりに
このドラマはとても面白かった。
ドラマがあまりに出来が良いゆえに、上であげた危惧を書き出したのだ。
やはりフィクションは事実を翻弄するし、何ならフィクションは常に事実を凌駕すると思う。
だからこそ、フィクションを愛するものとして事実を大切にしないといけないと思ったのだ。
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