男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論 感想

 杉田俊介の「非モテの品格 増補版」を読んで、男らしさと非モテの記述がいたく気に入ったため、2022年に出版された “”男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論””を購入して読んだため、そのレビューを書いていこうと思う。


1.貧困・労働者を差別するリベラル

 本書を読んで非常に印象深かったことは一般的にリベラルと呼ばれる人々が労働者階級・貧困者階級をあざ笑ったことについての記述である。
 リベラルがどのように労働者階級・貧困者階級をあざ笑ったのか具体例を引用しよう。

ジョーンズは、イースト・ロンドンの高級住宅街で催された友人宅の夕食会での経験を、じつに印象深く紹介している。
 発端は夕食会の招待主が何気なく口にした、軽いジョークであるーー「ウールワース[訳注:大手スーパーマーケット]がつぶれるのは残念だね。チャブたちは、いったいどこでクリスマスプレゼントを買うんだろう」。
 その言葉に不快感を表明した人は、その場にはいなかった。それどころか、彼のジョークにみな笑ったのである。重要なのは、その招待主が、自分は偏見を持っているなどとは少しも考えていない人物であり、パーティーに居合わせた人々もまた同様だった、ということだ。
 彼らには教養があったし、心が広く、専門的な職業に就く人もたくさんいた。人種も様々で、男女も半々、同性愛者もその中にいたという。政治的立場はほとんどが中道左派だ。もしもその場で、他民族を侮蔑したり、性的マイノリティをからかうような発言をした者がいるなら、「すみやかに部屋から追い出されていただろう」。

“”男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論””
p68

 チャブという言葉の意味を本書から引用しよう。

 「チャブ」とは、イギリスの差別用語の一種であり、「もっぱら労働者階級を侮蔑することば」である。
 この言葉は、対象となる人々に、「急激に増加する粗野な下流階級」というイメージを貼り付ける。語源となったのは、ロマ族(ジプシー)の言葉で「子ども」を指す「チャヴィ」である。

“”男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論””
p66

 チャヴィという言葉は本邦においては介護職やブルーカラーを想起させるし、ドナルド・トランプが大統領に就任したときは「トランプの支持者は貧しい白人だ」ということが叫ばれていた。

「白人労働者」は米国では「プア・ホワイト(貧しい白人)」「ホワイト・トラッシュ(白人のゴミ)、「レッドネック(野外労働者)」「ヒルビリー(田舎者)」といった蔑称と共に語られることも少なくない。日本からの駐在員や留学生、観光客にとっては接点の乏しい米国人と言って良いだろう。

そして、実は、それは米国のエリート層にとっても同じだ。格差社会が拡大するなか、大企業、先端企業、メディア、大学、シンクタンクなどで働く高学歴・高収入の米国人にとって、同僚や友人として彼らと交わる機会はほとんどない。それゆえ、中西部のラストベルト(錆びれた工業地帯)を中心に、それまで政治に対して冷笑的だった白人労働者が大挙して投票所に足を運び、民主党優勢の下馬評を覆したことはエリート層にとって大きな衝撃だった。

https://honz.jp/articles/-/44277

 本書はチャヴィという言葉についてジョーンズ氏の記述から引用しているが、さらにジョーンズ氏の記述から杉田氏が引用しているため、この著作から引用しよう。

「いまやチャヴということばには、労働者階級に関連した暴力、怠惰、十代での妊娠、人種差別、アルコール依存など、あらゆるネガティブな特徴が含まれている」。

“”男がつらい! 資本主義社会の「弱者男性」論””
p68

 私はこの記述を読んだときに文筆家の古谷経衡の著作「シニア右翼」の内容を思い出した。古谷の著作の内容を要約すると、ネトウヨは貧しく愚かな若者ではなくて、大学を出て高等教育を受けている自営業を営むそれなりに裕福な中高年であるという。

 また、古谷の著作だけでなくチー牛という言葉を思い出した。何故連想したのかを次の章で説明しよう。

2.チー牛とチャヴの連想

 どうして私が本書のチャヴに関する記述を読んでチー牛を想起したのか、それを説明する前にチー牛の由来を説明しよう。

2-1 チー牛の由来

 まず、チー牛という言葉を聞いて皆さんはどんなイメージを抱くだろうか。その言葉を知らなかったのならインターネットで調べてみると画像が出てくるので確認されたい。

 眼鏡をかけた男性が三色チーズ牛丼を頼むイラストが出てきただろうか。
そのイラストの起源は、2008年に絵師のいびりょ氏がネットにあげた自画像であるという。
 また、当初は自虐画であり他者へのレッテルを貼るものではなかった。
 ところが、そんな状況を一変する出来事がインターネット掲示板で起こった。
 掲示板への投稿の内容をまとめているwikiがあるため、そのリンクを貼る。

 ここで注意しなければならないことは、チー牛という言葉が就労移行支援を利用している人々を揶揄することを目的に産声をあげたということである。
 就労移行支援とは障がいを抱える人々が働き口を探すために利用しているサービスのことである。障がいを持つ人だけでなく、障碍者手帳を持たないが障がいの傾向がある人のためにもつかわれている。
 つまり、チー牛なる言葉は障がいを抱える人々が皆陰キャのような顔をしていた、障がいは顔に現れるなどと揶揄することを目的にしている。
 また、チー牛の顔をアデノイド顔とみなしてチー牛≒障がい者≒陰キャ≒アデノイドとした罪深さも忘れてはいけない。

 チー牛にたいして「陰キャのような顔」、「黒髪」、「眼鏡をかけている」ことをやり玉に挙げているようだが、そもそもおしゃれをするためでなく仕事を探しに就労支援を利用しているのだ。
 就職という場において黒髪であることは常識の範囲内だし、合コンや出会いの場ならまだしも仕事探しにおいて眼鏡をかけていることも常識の範囲内である。
 陰キャのような顔というのは主観的な意見であるし仕事探しに影響は無いと思える。
 以上のようなツッコミを誰かするべきだと思う。現に私は行った。

 その後、3種のチーズ牛丼が陰キャのチーズ牛丼と呼ばれるようになり、ネットだけではなくコミケを通じてミーム化していったというわけだ。

2-2 チー牛の曖昧さ

 いまやチー牛はミーム化してカジュアルに使われる単語になった。
 例えば、アニメを好きな人ーーつまりオタク趣味を持つ者ーーを指す言葉にも使われるようになったし、見た目を揶揄する言葉にも使われるようになった。また、自分の気に入らない人々ーー例えば左翼的な振る舞いをする人、表現の自由を叫びながら自民党に投票する人や女をあてがえ論者ーーを非難するために使われるようにもなった。

 それではチー牛という言葉から障がい者や就労支援を利用するものへの差別的な意味は消えたのだろうか。

 私は消えていないと考えた。
 何故なら差別とは悪意に基づくものでなく無知から生まれるーー白人が顔を黒く塗り黒人を演じる文脈が無視され、ももクロが顔面黒塗りでイベントを行って批判されたことがあるーーものであるからだ。
 チー牛の意味が生まれたときとは異なるものになったとしても他人を揶揄する言葉であることには変わりない。言葉の意味や使い方が変わったということは本来の意味や使い方が忘れ去られたことを意味し、忘れ去られた=意味を知らないということは無知であるということだから先祖返りする可能性がありうる。
 そのため、保守派はもちろんリベラルがチー牛という言葉を使った場合は注意しないといけない。

 私はチー牛とチャヴを似たような使われ方をしていると考えた。
 チー牛とチャヴも認知や知能の観点から社会に適応できず、リベラルからは自己責任として軽蔑することの対象となっているからだ。

2-3 チー牛とチャヴとの連想

 さてチー牛の由来と現在の曖昧な定義を記述した。
 それでは私がこの二つの単語を何故連想したのか説明しよう。

 まず、チー牛のイラストはイラストレーターの自画像から生まれたが、掲示板に無断転載されて就労支援を利用している者を「陰キャのような顔」、「黒髪」、「眼鏡」をあげつらうことで差別的なミームとして産声をあげた。
 チャヴはロマ族の言葉でチャヴィ(子ども)という意味があったにも関わらず、イギリスでは「粗野な労働者階級」を表す言葉となり、暴力、十代の妊娠、アルコール依存、人種差別を表す言葉となった。

 これら二つのスラングはミーム化する前において差別的・侮蔑的な意味を持っていなかったにも関わらず、人々に使われていくうちに多様な差別性・侮蔑性を獲得していった言葉である。
 また、リベラルとされる人々がこれらの意味をジョークとして盛り上げるために使われるという点でも共通している。

 チャヴについては本書が引用しているジョーンズ氏の記述のとおりであるが、チー牛をあげつらう左派の具体例には「愛国心はなまけ者の最後の逃避場」などのように政権や維新の会を批判するもののチー牛という言葉で罵倒するアカウントが存在している。
 「チー牛」や「こどおじ」を使う左派を取り上げている後藤和智氏のnoteのリンクを貼るため、リベラルがチー牛やサイコパスなど知能や精神といった観点から差別している具体例を確認されたい。

 以上のことから保守とリベラルとの差別のベクトルの違いが分かったのではないだろうか。

 保守は人種や性別、性的マイノリティが受ける社会的淘汰を無視してーー黒人は差別の対象だから教育を受けられず低収入である、LGBTQは差別を受けて就職で差別されるから貧しく自殺率も高いーー差別する。
 それに対してリベラルは人種や性別、性的マイノリティかどうかで差別しないものの、個人の知能の差異がなく平等であるとみなしているからこそ、自己責任の名のもとにチー牛やチャヴなどの言葉を使うのではなかろうか。

 リベラルには大学の教員や官僚やメディア、大企業で働く者が多いのだから、社会の中では高収入であるといえるだろう。
 サンデルは「運も実力のうち」で、(要約すると)富裕層の子供は親の裕福さによって学習環境を引き継ぎ知性を向上させているにも関わらず、全て自身の努力のおかげであるというバイアスに陥っていることを批判した。
 
 つまりリベラルの知能や精神への差別意識は貧困者や労働者、ブルーカラーと接しないこと、人間の知性や知能は脳(器質性)や環境(親の裕福さや学校)に依存しているにも関わらず、自身の努力でいくらでも能力を伸ばせるという信仰心によって生まれるのではないだろうか。

3.WOKE系パターナリストと対策

 リベラルが人種・性というアイデンティティでは人を差別しないものの労働者階級や貧困を差別していることについて述べた。
 これは保守派とは異なる権威主義が台頭したということではないだろうか。
 保守派は保守派で企業のトップ、大学の教員、政治家などがいるもののリベラルもリベラルであり企業のトップや先端企業、大学の教員、政治家がいる。
 つまりどちらも思想は違えどエスタブリッシュメントに変わりないのだ。
 SDGsを推し進める大企業や先端企業、大学の教員、政治家が中心となってアイデンティティ(人種や性)を体系的に理解して制度を整える。
 しかし、貧困や労働者、障がいを抱えた者たちには制度を整えたり理解を増進することなく福祉を削減したり自己責任を押し付けたりする。映画ジョーカーは障がいで笑ってしまうアーサーを描いたーー安倍晋三を銃撃した山上徹也はジョーカーに感情移入したらしいーーが、映画でも福祉は打ち切られてアーサーは自身が貧しく障がいを抱えながら母の介護をせざるを得なくなる。

 リベラルな大企業や大学の教員、政治家がいるため、社会はリベラルな価値観を受け入れ始めるが、リベラルな価値観(平等、自由、人種、性)が固定されて疎外された人々はエスタブリッシュメントである保守派に取り込まれる。
 トランプが分断を生んだと言われるが分断がトランプを生んだのだ。
 そして、右派は貧乏な人を救済するために福祉は使わない(新自由主義)ため、ますます自身への無理解や差別への憎悪をリベラルに募らせる。

 リベラルがアイデンティティ(性や人種)を重要視し、体系的な理解や社会の構築をして価値観を醸成した。
 これが一つの権威となった、つまりリベラルな価値観も権威となったといえよう。
 多様性や人種、性で人を差別しないーー右派や冷笑系の言葉を借りれば意識高い系といえるーーから、WOKE(意識高い)系パターナリストといえよう。

 それではチー牛といわれる人々はどうすれば良いだろうか。
 彼らに必要なのは似たような苦しみ、葛藤を抱えるものたちと連帯する=群れをつくること、自由や平等、個性や人間性を重視するのではなく宗教や共同体の中から自分の役割を見つけることに限ると私は思うのだ。

 何故、似たような苦しみ、葛藤を抱える者たちと群れを作り宗教や共同体の中から自分の役割を見つけることがチー牛に必要なのか説明しよう。
 チー牛は障がいを抱える者たちが就労支援を利用していることを揶揄すために生まれた言葉はこの記事で何度も説明した。

 就労支援を利用する者たちは社会生活を送るための能力に凸凹がある。例えば、過剰に言葉を文字通りに捉えたり、限られた興味を持ったり、顔色を読むことが苦手といった具合にだ。そのため、彼らは就労条件が厳しく人間関係を築くことも難しい。

 しかし孤独で自身の内面ばかり見ているとインセルのようなネトウヨやチー牛やサイコパスという言葉を使うパヨクに取り込まれてしまう。
 彼らに必要なことは人間性や個性を育むことではない。個性や人間性といった「私」にこだわり内面ばかり見つめるから社会や人間関係などの自身の外部へ目を向けられなくなるのだ。
 さまざまな障がいを抱えるため社会に居場所が無い者たちを社会は受け入れない。それに彼らの社会への適応も時間とともに進むわけだが多数の者よりも遅い。
 そのため、似たような苦しみ、葛藤を抱える者たちが集まり共有することで自己の内面にこだわらず健康的に生きようというのが私なりの対策だ。

 太田俊寛のオウム真理教の精神史によると近代よりも前の時代は死に対しての向き合い方は宗教的・共同体的なものだったそうだ。
 ジェシー・べリングの ””なぜペニスはそんな形なのか ヒトについての不謹慎で真面目な科学””では神を信じる者ほど向社会的といえるという記述がある。
 人間に自由意思があるかは定かではないし(社会生活を営むために自由意思が存在するという体である)、思考や知能、知性が脳や体の器質性や環境に依存している。したがって、理性や心、人柄にこだわる場合ではない。
 障がいは生来的なものであるから甘えなどではない。ではどうするか。
 宗教や神を信じること、そして共同体をつくることで人は向社会的な行動を取れるようになる。自由意志や内面、人柄などから個人と社会を考えるようになったのは200年ほどである。しかし、宗教は人類の文明が始まってから5000年は最低でも続いている。ホモサピエンスに限らずともネアンデルタール人は死者の埋葬を行っていたため、数万年から数十万年続いたといえるだろう。
 つまり、宗教というものは我々人類の文化と深く関わりあっているのだから、それに頼ったほうが合理的ではないだろうか。

 私自身行動しているわけではないし宗教について体系的に学んだわけではないから説得力はないだろうけれど、宗教や共同体をチー牛と呼ばれる人々が連携しあう、そして漸進的に変えていく。
 孤独や辛い仕事に耐えること、チー牛と呼ばれる者たちで連帯すること、それこそ弱者男性の取るべき道であり生き残れる方法であると思うのだ。
 ただ私は自由主義ではなく保守的なものの力を借りるし女性の無謬性には反発するため、男性学の杉田氏とは異なり私自身はマスキュリストといえよう。


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