シーラとプリンセス戦士 表現とポリコレから

昨年、私はNETFLIXで配信されているアニメ「シーラとプリンセス戦士」を視聴した。この記事ではその作品について書いていきたい。

1.シーラとプリンセス戦士について

まず、感想を書いていく前にシーラとプリンセス戦士がどのような作品であるか説明しなければならない。
舞台となるのは魔法の存在する惑星エセリア。そんなエセリアを侵攻しているホルダック軍の士官である少女アドーラは魔法の剣に導かれて伝説の戦士シーラに変身してしまう。自分が侵略者だとわかり、エセリアを守るためにホルダック軍を離反して、親友でも恋人でもあるキャトラと戦うことになる。
以上があらすじだ。

まず、シーラとプリンセス戦士は1985年にアメリカで放送されたアニメである「She-Ra Princess of Power」をリメイクしたアニメ作品だ。
「She-Ra Princess of Power」は「He-Man Masters of the Univerce」のスピンオフ作品である。
以下「She-Ra Princess of Power」をシーラ(85年)と、「He-Man Masters of the Univerce」をヒーマン(80年代)と表記する。
因みにヒーマンであるが日本においては玩具が売られているもののマイナーな作品である。
日本に住んでいてヒーマンを知っている者は、海外のミームについて詳しいだろう。

上記の動画に出ている金髪おかっぱ頭のムキムキ男がヒーマン(80年代)の主人公であるアダム王子である。

2.感想

アニメを視聴して抱いた感想は登場人物が生き生きしていることだ。
私が特に魅力を感じたキャラクターがフロスタである。
フロスタは名が示す通り氷のプリンセスである。
初めてアニメに出てきたときは堅物としての印象があった。
融通が利かず、ルールに従順であり、何より登場人物の中でも一番年齢が幼く、子供とみられたくないキャラクターとして出てきた。
その後はアドーラやグリマーなどと交流を深めるうちに徐々に態度が柔らかくなった。この変化こそがフロスタの幼さと堅物さと生き生きしている部分という一見矛盾していそうな部分をつなげているのだ。そのキャラクターの変化こそが登場人物の生き生きにつながるのであろう。

また、このアニメの登場人物の容姿も魅力的だ。
アニメはキャラクターを記号化して描くため、ステレオタイプに描いてしまう側面がある。
そのため登場人物のジェンダーも固定化するし、美男美女ばかりになったりすることもある。
だが、このアニメの登場人物の容姿はそれらの常識を打ち破っていた。
フロスタは日本のアニメキャラ風にいえば堅物のロリキャラになるであろう。だが見た目はアニメファンが萌えにくい絵柄であり、生意気そうだし可愛くない。子どもとして見られたくない子どもなど、大人からしたら素直じゃないウザいガキとして目に映るであろう。
そう、人やキャラクター、動植物やモノなど我々の目に映るものは全て我々の心を映す鏡なのだ。
子どもとして見られたくない子どもは、大人からしたら子どもなのに「素直じゃない」とか「生意気」だとか思われる。だが、それは”子どもなのに”という理不尽な前提やその前提によって繰り広げられる偏見によるものだ。

人間は自己の勝手な前提や偏見で他者を見る。
自身の成功体験や権威主義、生存性バイアスなどで人間の本質を見抜く力は衰えるし、理解できないものにたいしては恐怖心を抱く手前、理解する努力をせずに断罪する。
恵まれている人間は自身の成功要因においては努力を重視する癖に、恵まれない者の失敗を努力不足と揶揄する傾向。

そのような人間のクソっぷりを忘れないためにもアニメや漫画、小説は真面目に読んだり見たりしなければならないのだ。

3.ポリコレガーへの反論

よくアニメや映画の感想やレビューを見ているとポリコレに配慮していて面白くないという旨をよく目にする。
これについての反論をしていきたい。
その前にポリコレの定義をこれから説明していこう。
人種、性別、宗教などの違いによる偏見や差別を含まない、中立的な表現や用語を用いることを指す。
それでは反論しよう。
ポリコレへの批判として映画に有色人種の登場人物が出てくることが挙げられる。例としてMCU版スパイダーマンにMJ役としてゼンデイヤが演じたことだ。
これについては有色人種を映画に出すなという意見と白人であるMJを有色人種が演じるなという意見がある。
まず、スパイダーマンの舞台であるクイーンズはアメリカで最も人種が多様である街であることだ。

17年、クイーンズ区は多様性指数76.4で全米首位だった。
 ニューヨーク市内では他に、ブルックリン区が72.6、マンハッタン区が68.3、ブロンクス区が59.3、スタテン島が56.3だった。

https://www.dailysunny.com/2019/07/05/nynews190705-6/
多様性、クイーンズが全米一 人種と民族、国勢調査で比較

上記の引用のようにブルックリンには人種が多様である。そのため、映画に有色人種を出さなければリアルではないのではないだろうか。また、ヨーロッパにも白人しかいないというわけではなくて、西アジアからの移民やアフリカ系の有色人種もいる。有色人種を出さないというのは無理があるのではないだろうか。

白人を有色人種が演じるなという意見がある。
これは原典どおりやれということだろう。
しかし、考えてほしい。
我々の身の回りのフィクションには古くから存在していたものがある。
例えば三国志演義では劉備が呂布から逃げる際、人肉を食べたエピソードがある。これは劉備が劉安という男にかくまわれて食事の提供に肉を食べた。その後、劉安の妻の肉だと知ると曹操に褒賞のお願いをしたエピソードである。吉川三国志ではこのエピソードが日本人の価値観では理解できないが、注釈をつけた、とある。
このように時代が進むにつれて、価値観や表現が変わるのだから原典通りにやらなくてもよいと私は思う。

4.結論

このようにポリコレと表現の点からシーラとプリンセス戦士について書いた。
シーラとプリンセス戦士は面白かったのだが、問題点を挙げるとすればネットフリックスに入会しないと視聴できないことだ。
つまり、何が言いたいか。
この記事を読んでいるあなたがもしもシーラとプリンセス戦士を見ていない場合、ネットフリックスに入会してこのアニメを見てほしいということだ。
私の駄文でシーラとプリンセス戦士のファンが増えるのなら、こんなにうれしいことはない。

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