短編小説『アブサン』

アブサンという酒がある。

ニガヨモギやアニスなどの
ハーブを使ったリキュールで、
ゴッホなど多くの芸術家が
これを飲み過ぎて身を滅ぼしたと言われる。

「死神はアブサンを手にやってくる」

そう言われるようになったのは、
俺が昔ある女に出会った頃。

俺が目の前に現れたとき、
女はすでにアブサンの飲み過ぎで死にかけていた。

ゴミが散乱する床にのびたまま、
「ヨモギ」とか「不在」とか
支離滅裂な言葉を発していた。

こんなに好都合な事はない。

毎回「死にたくない」と
泣きわめく人間が多かったから、
今回はかなりラクな仕事だと思った。

女の手からアブサンの瓶を取り上げると、
女はすぐに息を引き取った。

そしてすぐに息を吹き返した。

正確には体から魂が離脱したのだ。

女はマスカラが滲んだ黒い目でじっと俺を見つめた。

そして俺が持っているアブサンを指差してこう言った。

「ニガヨモギの花言葉は”不在”」

俺はコートのポケットから
一本のロウソクを取り出した。

死神仲間にもらったやつだ。

そいついわく、
「ただのロウソクじゃねぇ。人間の寿命を操れるんだ」

俺はあまり興味が湧かなかった。

そもそも人間というものに興味がなかった。

死ぬという感覚も分からないし、
恐怖という感情もよく分からない。

この女にしても
死ぬ事に全く恐怖はないらしい。

その証拠に鼻歌を歌いだした。

「空と大地が ふれ合う彼方…」

テーブルの上には一枚の手紙があり、
そこには涙の跡とともにこう書かれていた。

「サヨナラ」

俺はアブサンの瓶をポケットにしまい、
ロウソクに火をつけた。

女はその火をじっと見つめていた。

そして何かを理解したような顔で
ロウソクの火をフッと消した。

その瞬間女の魂は消え、
部屋には俺ひとりになった。

哀しみをもて余した女は
誰のものにもなれず、
誰かのために生きる事もなかった。

異国へ旅立った女は
アブサンのにおいだけを残し、
その短い生涯を終えた。

俺はただの通りすがり。

女も誰かにとって
ただの通りすがりだったんだろう。

時間旅行が女の心の傷を埋めていく。

ニガヨモギの花言葉は”不在”。

ここに置き去りにするくらいなら
はじめからいなかった事にしたほうがいい。

そのほうが彼女にとって
救いになるのかもしれない。

俺はポケットからアブサンを取り出し一口飲んだ。

そして死界に戻り、
仲間たちに話して聞かせた。

「アブサンという酒がある」

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