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ドラマ『日本沈没』と『七人の侍』における"嘘っぽさ"の違い

TBSの日曜劇場『日本沈没』

TBSの日曜劇場『日本沈没』を毎週観ている。

普段ドラマはあまり観ないが、たまたま『日本沈没』初回を観て、思いの外面白かったため、その後も観るようにした。しかし残念なことに、回を重ねる毎に魅力がなくなり、凡庸な作品という印象が強くなっている。

初回、魅力を感じたのは、視聴者に"憎らしい"と思わせる敵がいたからだ。初回における敵は國村隼演じる東大教授だった。タイトルが"日本沈没"なのだから、香川照之演じる田所教授が主張する関東沈没説が正しいという事が視聴者側にはわかる。しかし、それを馬鹿げた主張と一笑する國村隼は、憎らしい敵だった。実際観ていて、その権力を盾に関東沈没説を小馬鹿にする姿は憎らしさを感じさせた。しかし、その後、國村隼はあっさり敗れ、出番がなくなる。

その後、敵は石橋蓮司演じる財務大臣となったが、しかし、この財務大臣が弱い。権力を使って主人公たち邪魔しようとするが、いつもあっさり小栗旬にやられる。弱いのである。彼が邪魔しようと画策していても、どうせまたすぐ小栗旬にやられるんだろうな、と想像がついてしまう。

以下の記事にも書いたが、観ている側が感情移入し、そして面白いと感じるには、強力な敵が重要だ。

このように、『日本沈没』の魅力が減っていったひとつの要因は、敵の弱体化にある。同じTBS日曜劇場『半沢直樹』が、なぜあそこまで面白く大ヒットしたのかといえば、敵となる大和田常務や金融庁の黒崎が強力で、また、確立したキャラクターだったからだ。

未来推進会議の嘘っぽさ

もうひとつ、『日本沈没』の魅力を半減させるのが未来推進会議である。未来推進会議は総理大臣の肝いりで集められた、各省庁から選抜された若手官僚の会議体である。

財務省、経産省、外務省…といった各省庁から選抜された若手官僚が、関東沈没や日本沈没といった危機対策の主役となるわけだが、この会議体が極めて嘘っぽいのである。

実際、未来推進会議のような各省庁から選抜された官僚の会議体が、危機対策の主役となることなどありえない。実際に日本沈没という危機が現れれば、学者たちを集めた有識者会議、もしくは専門家会議が主役となるだろう。コロナ対策を見ればわかるはずだ。

しかし、これはドラマである。未来推進会議のようなあり得ない設定は、ドラマだからこそあるわけで、だから未来推進会議という設定自体は面白いと思う。

ただ、この未来推進会議の各メンバー、つまり、各省庁から選抜された若手官僚たちが全く目立たないのである。目立つのは環境省の小栗旬と、未来推進会議議長・経産省の松山ケンイチだけで、他省庁の官僚はまるで目立たない。

会議のシーンでも、他のメンバーはただ「どうして?」とか「オー」とか「ワー」といったリアクションするだけである。それぞれのキャラクター設定がほとんど存在せず、リアクション要員としてのみ存在している。

実にこれが嘘っぽいし、そして、ドラマ自体の魅力を半減させている。

各省庁からの選抜メンバーである。そのような面白い設定をするのであれば、ステレオタイプ的な各省庁のキャラクターを各人に持たせるべきでなかっただろうか。

財務省は、超エリート、抜群の頭脳の持ち主、プライドも高く、他のメンバーを見下している。そもそも、議長の座を経産省に取られていることに憤慨している。そのため、松山ケンイチによる議事進行を幾度となく妨害する。

外務省は、突如英語でリアクションを取るという愚の骨頂のようなことをせず、国際感覚が抜群、オシャレでスマート。関東沈没、日本沈没という未曽有の危機に対して、他国の危機対策の例をツラツラと述べてエリート然としている。

国土交通省は、首都機能の札幌移転や、他の地区での避難所建設となれば、利権利権と我先に動く。

文部科学省、農林水産省、法務省といった、財務省、経産省からすれば格下省庁は、まともな意見も言えず、悔しい思いをしている。そんな中、文部科学省や法務省よりも格下の環境省・小栗旬が、型破りな性格で、財務省や経産省、外務省の面々を論破していく…。

そのような、ステレオタイプ的キャラクター設定を行うことで、ドラマに奥深さが生まれ、魅力が何段にも増したのではないかと感じる。

つまり、今の未来推進会議は、小栗旬と松山ケンイチ以外、いる必要がないのである。

『七人の侍』のキャラクター設定

主役、準主役だけでなく、敵役、そして脇役までのキャラクター設定の重要性を考えた時、思い浮かべるのは黒澤明監督の『七人の侍』である。

『七人の侍』が、これだけ世界的に評価され、そして実際に非常に魅力に溢れた作品である要因は多岐にわたるが、その一つが、キャラクター設定の巧みさである。

『七人の侍』は、七人の侍がメインキャスト、つまり主役となるわけだが、七人が主役というのは決して少ない人数ではない。しかし、その七人が実にバラエティ豊かなキャラクターであり特徴がある。

三船敏郎は野育ちの型破りな侍、志村喬はリーダー、加東大介はリーダーの側近で槍の使い手、稲葉義男は頭のキレる参謀、宮口精二は剣の達人、千秋実はおとぼけキャラ、木村功は半人前の侍。一言で各侍のキャラクターがすぐに説明可能なのだ。

そのキャラクター設定は七人の侍だけでない。敵となる野武士たちは、ただひたすらに村を襲ってくる強力な敵である。農民たちも、長老や藤原釜足、左卜全をはじめとした強烈な印象のキャラクターが登場する。

ただのリアクション要員の登場人物などいないのである。

つまり、これが、『日本沈没』を凡庸な作品と印象づけ、『七人の侍』を傑作と感じさせる違いである。

黒澤監督作品の嘘っぽさ

『日本沈没』の未来推進会議は嘘っぽいと書いた。しかし、『七人の侍』をはじめ、黒澤作品というのも、実は嘘っぽい作品である。

黒澤明監督の作品は、”徹底したリアリズム”と言われることがある。また、有名な彼の完璧主義に基づく撮影は、リアリズムの追求に対して行われた、と解釈されることがある。例えば、『蜘蛛巣城』で、本物の弓を三船敏郎めがけて射ったシーンなどである。

しかし、黒澤作品を観て感じるのは、現実的なリアリズムではない。黒澤監督が追及したのは、映画的なリアリズムである。

最もわかりやすいのは、『椿三十郎』のラスト決闘シーンであろう。三船敏郎が仲代達也を切り、激しく血しぶきが飛び散るわけだが、実際、刀で切ってあんなに激しく血が噴き出すわけがない。

つまり、現実的なリアリズムとはかけ離れている。しかし、あのシーンは実に魅力的なシーンである。それはなぜかといえば、映画としての魅力に溢れているからだ。

三船敏郎と仲代達也が向き合う。背景には若い侍たちがじっと二人を見ている。静寂。動かない二人。漂う緊張感。どうしたんだろう?と思う程の長い静寂の間があり、そして、次の瞬間、二人が動く。そして、血しぶきが飛び散る。静寂からの血しぶき。静と動の対比。ダイナミズムである。

映画的なリアリズムとはこういことだ。現実的なリアリズムではない。映画的なリアリズム。それはつまり、映画としての魅力の追求である。

もしも筆者が、「黒澤作品はどういう作品ですか?」と質問されたら、一言、こう答える。「わかりやすい作品です」と。

黒澤作品は、上述したようにキャラクター設定がはっきりしている。敵は敵、味方は味方である。ストーリーも、複雑とは対極にあり実にわかりやすい。ヒューマニズムというテーマは、変化球を投じることなくド直球のストレートで描かれる。俳優たちの演技も、オーバーと形容したくなるくらいにわかりやすい。悲しい時は悲しい表情をするし、怒りの時はまさに怒りの表情である。失望した時は、大きくガックリと肩を落とす。また、背景では、俳優たちの心象を表現するように、またはアクションを際立たせるように、タイミングよく雨が降ったり砂埃が舞っていたりする。

これらはわかりやすいし、別の言い方をすれば嘘っぽいのである。しかしその嘘っぽさこそが魅力の源泉なのである。

失望したからといって大きく肩を落とすようなことを、現実社会で人はなかなかしない。悲しみに暮れているとき、タイミングよく雨が降ったりしない。

1990年、黒澤監督がアメリカのアカデミー賞で特別名誉賞を受賞した。この時の黒澤監督のスピーチが非常に印象的だった。

「わたしはまだ、映画がよくわかっていない。映画というのものをまだ、しっかり掴んでいないような気がするからです。映画というのは素晴らしい。しかし、映画というこの素晴らしく美しいものを掴むことは大変難しい。しかし、わたしはこれからも、この映画という素晴らしいものを掴むために、全力を尽くすつもりです」

黒澤監督の映画への志向は、映画としての魅力の追求だったのだと思う。映画としての魅力、映画的なリアリズムの追求。それは、尽きることのない探求であるし、まさに、掴むことのできないことだと感じる。

映画的なリアリズムを追求した黒澤作品と、ただのリアクション要員を大量に配置し、弱小な敵を登場させる『日本沈没』。その魅力に大きな差が生じるのは致し方ないことだ。

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