見出し画像

小津映画は「つまらない」と言える勇気を持とう

小津安二郎の映画はつまらない。それは、歴然とした事実だ。

これまで大ヒットを記録してきた映画は、一言でいえば「主人公が困難に打ち勝って目的を達成する(もしくは達成しない=悲劇、失恋など)」話ということになる。

『タイタニック』『アナと雪の女王』『E.T.』『スター・ウォーズ』『ジョーズ』…等々。歴代の興行収入のトップは、そういった「主人公が困難に打ち勝って目的を達成する(もしくは達成しない=悲劇、失恋など)」映画が並ぶ。

なぜ並ぶのかといえば、「主人公が困難に打ち勝って目的を達成する(もしくは達成しない=悲劇、失恋など)」映画が面白いからだ。面白いからお金を払って、人生の貴重な2時間を映画に使う。

小津作品のつまらなさ

小津作品は、家族の会話をただ映したシーンが繰り返され、事件らしい事件も起こらない。憎らしい敵もいない。そもそも主人公の目的すら存在しない。しまいには、人が動かない。ただ、ちゃぶ台を囲んで座って話しているだけである。

このような映画が面白いわけがない。「主人公が困難に打ち勝って目的を達成する(もしくは達成しない=悲劇、失恋など)」ことに、かすりもしない映画なのだから。

しかし、日本最大級の映画レビューサイト、Filmarksでは『東京物語』をはじめとした小津安二郎監督作は、どれも軒並み高評価、絶賛レビューが並んでいることに驚く。

人の好み、評価はいろいろある。これが例えば、5:5の割合で高評価と低評価のレビューがあるのであれば、まだわかる。しかし、小津作品のレビューはそうではない。偏りすぎている。

Filmarksにおける『東京物語』のレビューは1万強(2021年10月現在)あり、そのすべてに目を通してみた。その結果、高評価のレビューやコメントは9割を軽く超え、「つまらない」といったコメントとともに低評価レビューをしている人はごくごく少数だった。

レビューには、「面白い」「リアルだ」「感動した」といったコメントが並ぶ。『東京物語』のような、ストーリーがあってないような話を面白いとは到底思えない。小津安二郎という人は、美しいものだけを画面に映した、調和と虚構の世界を描いた作家だ。リアルだというのは、小津監督作品に対して逆に失礼だろうと感じる。ドラマチックとは程遠い『東京物語』に感動するのも、信じがたい。

中には、申し訳なさそうに「自分にはまだよさがわからない」といったコメントを書いている人がいる。"まだわからない"とはどういうことだろう。なぜ、『東京物語』は"よい作品”であるということが前提なのだろうか。

100%に近いユーザが『東京物語』を高評価するという状態は異常だと言わざるを得ない。『東京物語』は高評価しなければならない、そんなルールが存在しているかのようである。

小津安二郎作品との出会いと答え

筆者が小津安二郎監督作品を初めて観たのは『東京物語』で、10代の頃だった。小さい頃から映画が好きで、時間さえあれば映画をみていた。

世界的な名作といわれる『東京物語』をみて、そのつまらなさに愕然とした。当時、もっと深刻にショックだったのは、世の中の『東京物語』の高評価と自分の評価がかけ離れていたことだった。

そのため、なぜ、小津安二郎の映画がそんなに評価されるのかを知りたくて、小津安二郎の研究本を読み漁った。

それらを読んで、小津安二郎が評価される理由はわかった。ローポジションをはじめとした固定ショット、細部にまで行き届いた画作り、相似形の構図…等々。

それでも、良さは感じられなかった。評価される理由はわかる。しかし、その良さを感じることはできない。それが、小津安二郎の映画に対しての答えだった。

”わかる”ことと”感じる”ことの違い

筆者は、映画監督でも評論家でもなく、映画関係の仕事を目指している人間でもない。ただの映画好きだ。

つまりは食通ではなく、食いしん坊にすぎない。

刺し身は塩でなく醤油をたっぷりつけて食べるほうが美味しい。ざる蕎麦に塩をつけて食べるなんて考えられない。つゆにつけて食べたほうが美味しいに決まっている。

学生時代、映画鑑賞とともに、ずっとサッカーをしてきた。某地方都市の選抜メンバーに選ばれたこともある。だから、サッカー観戦を、サッカーをした事がないサッカー素人と一緒にすると、サッカーの経験の有無を感じることが多々ある。

何気ないトラップやパスなどを見て、プロはやっぱり上手いなあと思う。しかし隣では、何の反応もなく見ているサッカー素人がいる。しまいには、「なんだよあのトラップ!ちゃんと止めろよ!」なんて言い出す。難しいだろうなというシュートを外してしまうと、サッカー素人は「何やってんだよ!」と野次を飛ばす。あれを決めるのはかなり難しいだろうな、と隣で感想を抱く。

サッカーの素人に今のシュートがどれだけ難しいか説明すると、難しいということは「そうなのか…」と何となくわかってくれる。しかし、どこか不満気なその表情を見ると、サッカーの実体験がないと、その難しさを実感として感じてもらうことは出来ないのだなと感じる。

そういったサッカー素人のサッカー観戦をまったく否定しない。サッカーを楽しんでいるのだから、それでいい。トラップの上手い下手なんてどうだっていい。面白い試合で、そして勝てればよいのだから。

つまり、“わかる”ことと”感じる”ことは違うのである。

映画においても、映画の専門家が高評価する理由を何とかわかったとしても、やはりそれを”感じる”ことはできない。

数十年ぶりに『東京物語』を観てみた

この文章を書くために、再度『東京物語』を観た。ついでに紀子三部作の『晩春』と『麦秋』も観た。学生時代とは異なる感想、もしかしたら感銘を受けたり感動したりするのではないか、そう思ったからだ。

しかし、結果は、やはりつまらないだった。学生時代に観た頃より、映画製作における映像技術は進歩して、リアルで派手な映像を映す作品が増えている。そのため、よりつまらなさが際立つようになった、という方が正しいかもしれない。

映画監督の山田洋次が、若い頃は小津安二郎の作品はつまらないと思っていたが、歳をとると良さがわかるようになった、という趣旨の発言をしている。

学生時代からは随分と歳を重ねた今、観返しても、感想は同じようなものだった。山田洋次監督という映画の専門家が歳を重ねるのと、素人が歳を重ねるのは違う。

また、山田洋次監督は、今の若い人が観て小津安二郎の作品を面白いという人がいたら相当にひねくれた人だ、といった発言もしている。山田洋次監督の言葉からしても、Filmarksの『東京物語』レビューの奇妙さ、不自然さを感じる。山田洋次の言葉に従えば、Filmarksで『東京物語』をレビューしている人は、大半が老人か、もしくは相当ひねくれている人ということになる。

小津安二郎の映画を「好き」ということの問題点

映画の専門家において、なぜ小津安二郎の作品が評価されているのかは、wikipediaにも簡潔に書かれている。小津安二郎解説本としては、佐藤忠雄氏の『小津安二郎の芸術』がよいと思う。

今は上下巻とも手に入りづらくなっているようだが、小津安二郎の技法が網羅されており、小津安二郎批評本で著名な蓮實重彦氏のように難解でもない。読みやすい文章でとても面白く読める本だ。

映画の専門家たちになぜ小津安二郎が評価されているかを理解したとしても、小津安二郎作品はつまらない。冒頭に書いたように、それは歴然とした事実だ。

一番の問題は、専門家ではないただの映画ファンがレビューするFilmarksで高評価レビューが並んでいることである。

小津安二郎の作品は世界一の映画、だから自分も高評価しなければいけない、もしくは、他のみんなが高評価しているから自分も高評価しておこう…といった同調現象を感じる。

Filmarksのレビューを読み込んでいくと、小津安二郎作品をよいと言うことでの知ったかぶり、もしくは、自分はわかる人をアピールしたいいった虚栄心や見栄とは違うなと思う(中にはそういうレビューもあるが)。

虚栄心や見栄というより、どこか小津安二郎作品を評価する言葉を無理に探しているような、オドオドしている感じのレビューが多数感じられる。世の中でよいとされているものを自分もよいと言いたい、言わなければいけない、言っておきたい、周りと違う変な人になりたくない、書いている本人は意識的にそう考えていなくても、文面から、そういう感じを受ける。

高評価レビューが並ぶ『東京物語』を見ると、周りの空気に合わせるという日本人の得意技を感じると同時に、同じ方向に傾斜しようとする集団心理の怖さを感じてしまう。ナチスに率いられ、大多数が同じ方向に傾斜していった戦前ドイツを想起する。

また、小津安二郎レビューを読んだ時、思い浮かべたのは、フグ刺しである。

ちゃんとした料亭やお店で食べれば一人数万円は飛ぶ高級魚。しかし、フグ刺しは、美味しくない。見た目は綺麗に盛り付けられて器とも調和し美しい。しかし、味は薄味…というよりほとんど味なんかせず、ポン酢や薬味の味しか感じない。

まさに、小津安二郎のように。見た目は綺麗で調和していて、けれど味は薄味、もしくは無味。

サバやブリ、サンマのほうが味かしっかり感じられて美味い。

仕事の関係で、何度も高級店でフグ刺しを食べたが、その度、美味しくないと感じる。しかし、接待する側もされる側も、みな口を揃えて美味しいという、「濃厚な味わいだね〜」なんて言われると、味覚の病気なんじゃないかと疑わしくなる。

つまらない映画や美味しくないフグをみんなと一緒に「好きだ」という事は、欺瞞に満ちた行為に他ならない。

自分の貴重な感性に嘘をつき、周りの空気に合わせることを辞め、小津作品はつまらないと言える勇気を持つべきではないだろうか。これから小津作品を観る人も、これまで小津作品を観て周りの空気に合わせて「好き」と言ってきた人も。

「小津作品はつまらない」。そう声を大にして言えば、それが何て気持ちのいいことかわかるはずだ。自分の感性に嘘をつく事ほど窮屈なことはないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?