欲張るを可視化してみたらどうなのだろうか

自分の中の欲張るってなんだろう。

欲張るのはいけないことだと教え込まれた。
恥ずかしいことだと叩き込まれた。

じゃあその欲張るを可視化してみたらどうなのだろうか。
己が思う欲張ると、それ以外の人間の数だけの欲張るを比較したときに、自分の欲張るの基準は他者と同じなのだろうか。

たとえば
彼はいるけれど他にも自分を満たす男が欲しい
あと少し稼げるようになりたい
もう1つ飴玉が欲しい。etc

その飴玉は1粒10円なのか、500円なのか、1万円なのか。

ここで自分を振り返り、いったいいくらだったら欲しいと言っていいと思っているのかを見たら面白かった。


欲張ってはいけないといっても、自分の中には基準があって、例えば私なら1粒10円だったらば欲しいと言える気がするし、500円ともなれば、恐れ多くて欲しいなんて言えない。

さらには欲張っていないのでは「ない」のだとわかった。
自分が欲しいと言っても許されるレベルを自分で作っていて、そこに収まる範囲では欲しいと思うことに卑劣さのようなものがないし、外に向かって言える。
自分の基準に収まる範囲なら、それは恥ずかしいことではないと決めているのだ。

結局は自分が経験の中で色濃く残ったものを重ねて、基準というルールを作っているのだなと、今思った。

欲しい、下さいは施しを受けることだとしている私だけれど、きっと本当はそうではないのだろう。
欲しい、下さいと願い、それを手にするために、みんな努力をしているはずだ。みっともないわけがない、堂々と欲しいと公言して、恥かいても痛い思いしても(←この段階が必ずあるという私の信じ込み)、そんな辛い思いしなくても、公言するからこそ手に入るのだろうから。

欲張るという言葉以外にしてみたらいいのかな。どうだろう。ああ、そうだ、「宣言する」にしよう。

今日から自分が勝手に決めた「欲張っていいルール」から1mm外側のものを宣言してみよう。
小さく小さくやって、自分を騙していけたらいいのだけど。

けど、まあ本音は、欲しいと自分から発する行為がなんだか怖い。
いや、みっともなくてイヤだと思っている。がめついと思われたくないと思ってる。
恰好つけたいと思ってる。

そうしないとどうなると思っているのだろうか。
恰好いい、つまりスマートな方がコミュニケーションが取れるとしているので、そうしないことは仲間外れになるかもしれなくて、それが恐ろしいから。

自分が作り上げたすさまじいルールに今日も振り回されている。

yuriyumiko

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