一体、何を足りないとし得ようとしているのか

TV番組の山の中にポツンとある一軒家に暮らす人を見て、私は寂しくないのかなとつい思う。
自分をそこに映し出して、寂しいに違いないと思ってしまう。

そこに住む人の実際を私には知ることは出来ないけれど、テレビというものから見えているものだけならば、一人で住まわれている人たちは口を揃えて「楽しい」「満足している」と言い、寂しくなさそうに見える。

こんなに寂しがるのは私だけなのか?
いやまて、山の奥とはいえ、色んな人が訪れ、私なんかより遥かに多くの人と会い話し、心を通わせているのだろう。
そんなことを想像する。


私はといえば、暑さから避難したくて今マクドナルドでハンバーガーを食べ今日の仕事をしている。在宅勤務4年目。
暑さから避難と言えば恰好がつくけれど、ほんとうは賃貸の一人住まいの部屋に籠っているのが苦しいから。
外界と遮断されている感覚が、どんどん強くなり、たまらなく寂しくなる。
一人で過ごす時間は好きだけれど、1週間、1か月、2年3年となると、私は参ってしまうのだとわかった。週末に友人と会う、身内と過ごす、それでは調整できないところまできたと自覚中。

高校を出てからほとんど一人暮らしなのに、こんなに寂しいという感覚を感じたのは初めてで、戸惑っている。自分のことを「どうしてしまったのか?」と持て余している。

この寂しいの根本、心細さは、今この在宅勤務で顕わになっているけれど、実際はすでに持っている別の不安なのだろう。
ただ今の自分ではそこに向き合う胆力がないんだろうな。
今日も、そんなどうでもいいことを考えながら、何かを食べ、排せつし、仕事をし、合間合間に空の青さにハッとしたり、真夏の緑に気を取られたり、アスファルトを伝う熱風に辟易したりしている。

たったこれだけのことをするのがこの世に生まれた意味ならば、私はもう存分に満喫している。
なのにわたしは一体、何を足りないとし得ようとしているのだろう。

きっと山奥の一軒家に一人で暮らす人たちは、何かを足りないとせず、空(くう)に手を伸ばし何かを得ようともしていないのだろうな。

寂しさというのは「足りない」感覚の別の言い方なのかもしれない。

yuriyumiko

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