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教師の「願い」はいらない?

「私はこのクラスを誰にでも優しいクラスにしたいと思っています。」

これは教師の願いである。

4月、教室にて子どもたちと対面する際、教師は子どもたちへ所信表明をする。

その際に全体に向けて願いを言うのだ。

〇〇なクラスにしたい。〇〇の思いを持っている。

結論、私はこの教師からする児童へ向けての願いは不要であると考える。

理由は以下の通りだ。

3つある。

1.願いはその場限りの言葉となる

2.願いを持ってはいけないのか。

3.学校は何をするための場なのか。

これから述べてゆく。



1.願いはその場限りの言葉となる

空を舞うと言えば良いのだろうか。

一生懸命に教師が語るその願いは果たして子どもたちに届いているのであろうか。

否である。届くはずがない。

なぜならまだあって間もないからだ。

そんな関係性も構築されていない、ましてや年齢が離れている大人に「君たちにはこうなってほしい!」と熱弁されて子どもたちは鼓舞されるだろうか?

些か疑問である。

加えて、もう1つ。

もし、読者の皆さんが教師という立場であった場合、その願いを常に1言1句違わずに子どもたちに語れるだろうか。

私は無理である。どうしてもブレが生じてしまう。言葉として語るのであれば。

そんな貫徹していない願望など喋る必要などない。

子どもたちにも示しがつかない。

だから、私はこの願いは不要であるとみなすのだ。


2.願いを持ってはいけないのか。

では、教師の子どもたちへの願いはいらないのか。

そうではない。

私が主としているのは「語り」に関してだ。

子どもたちの心に残らないのであれば、上記の語りは無用であるという主張だ。

願いは大いに持っているべきである。たくさんあって良い。

それらは子どもたちの成長を望み、愛ある仁心なのだから。

すなわち、‘‘伝え方’’である。

私なら授業でその思いを伝える。

授業には規律があり、ルールがあり、システムがある。何より子どもたちと対話ができる。知的な授業、教態、行為から願いを伝えるのだ。その方が、一方通行である語りより、よっぽど彼らの心胸に入る。

さすれば、所信表明では何を子どもたちに話すのか。

それが3つ目の「学校は何をするところなのか」である。


3.学校は何をするための場なのか。

読者の皆さまは一度ここで読みのをやめていただきたい。

そして紙に書いてみてほしい。

「学校は〇〇をするところである」と。私は2つあると考える。





いかがだろうか。

私はこう考える。

学校は

①仲良くするところ

②賢くなるところ

である。

これは子どもたちにもそのまま話す。

【仲良くするところ】

依存先の増加。私はそう捉えている。

子どもたちは小さな社会の中で日々を過ごす。

大人になっても集団で日常を歩む。

そんな中、人間関係に耐えられず命を自ら立ってしまう若者が増加の一途を辿っているのは周知の事実である。

彼らは自ら依存先を減らしてしまっていたのではなかろうか。

初めは友達、親友、家族、趣味など多くの拠り所を持っていた。

しかし、だんだんと追い詰められ最後は誰に(自分でさえ)頼ることもなく終わりを遂げてしまったと推測する。

仲良くなると良い波動がその集まりに波及する。

それも男女である。団結力も増し、賢くもなる。何より信頼関係が強固になる。

ここが最も重立った目的である。信頼を増やし、命を繋ぎ止める糸を自分に結んでゆくのだ。

仲良くなるには、そんな意味も含めまれている。

【賢くなるところ】

どんなことも勉強である。

学問だけではなく、人間関係、奉仕活動、様々である。

学校に来て、馬鹿になってしまってはいけない。

それでは何にもならない。学校などいらなくなる。

学校とは文字通り、学び舎。

賢くなるためにあるのだ。

これについては長くは語らない。

答えは明白だからだ。


この2つを教えることで子どもたちは学校に来る意味を理解する。

むしろ2つしかないから覚えられる。

教師の持つ厳しさの基準も伝えられる。

この2つに関しては厳しいと。


終わりになるが、私は願いを子どもたちに語る行為はしない。

授業の中で行動として、態度として表す。

そして、私の願いはただ1つだけ。

賢くなり、仲良くなり、私以上の笑顔で毎日を過ごしてほしい。

それだけである。

今回もお読みいただき感謝いたします。







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