青いマグノリア #8
次の土曜日、咲は早朝から五十嵐に紹介された植木屋に出かけた。都心から1時間もかからずに到着した最寄り駅には周辺に飲食店やスーパーが立ち並んでいるが、しばらく歩くと畑を見かけるようなのどかなところだった。笠松造園という名のその業者は五十嵐の同期の父親が経営しており、咲より若い男性を何人か使っている様子だ。女性が造園業に興味があると聞いて、親方は見習いがてら雑用をこなすならいいだろうと受けてくれたらしい。
「長谷川咲と申します。今日からよろしくお願いします。」
「笠松です。五十嵐君と知り合いなんだって。五十嵐君、昔はよく家にも遊びに来てたんだよ。雑用しながら仕事を見ていってもらうからよろしくね。今まで経験はあるの。」
「いえ、全くの素人です。庭が好きっていうだけで。」
「そう。まあ、見るとするとじゃ大違いって言うから、何事も経験だと思ってやってみてください。」
「はい。お世話になります。」
「今日はこいつと3人で行きます。吉田、今日から手伝いに入る長谷川さん。」
「長谷川です。よろしくお願いします。」
「吉田です。親方のお知り合いですか。」
「知り合いの知り合いってとこだな。支度できてるか。今日は楠木さんとこだぞ。」
「出来てます。」
「じゃあ行くぞ。」
3人は吉田の運転する車で都心を目指した。
青山の豪奢なその家に着いたのは9時を回った頃だった。立派な門構えの向こうに松の気が高く伸びている。庭に入ると吉田は早速支度を始めた。その時笠松が咲に話しかけて来た。
「庭に入ったら、まず全体を眺めるんだ。俯瞰してじっくりと。それから細部を見ていく。どこをどうするか全体を見ながら決めていくんだ。」
「全体ですね。」
咲は言われたように庭を眺めた。新緑の季節を迎え、その純和風の庭では春の花々が木々を彩っている。しばらくじっと見つめていた。全体を眺めているうちに視点が定まっていった。視界の端には池の鯉の鮮やかな朱色も入ってきた。
「じゃあそろそろ始めるか。長谷川さん、下植えの草取り出来るかい。」
「はい。草取りは実家の庭でしょっちゅうやってます。」
「じゃああそこら辺、分からないことがあったら吉田に聞いて。」
「はい。」
笠松と吉田は庭木の剪定、掃除と手際良くこなしていく。咲も下植えの草取りにや掃き掃除、枝葉の片付けに精を出しながら時間が過ぎた。11時半頃に一通りの仕事が終わると、家政婦らしき女性が声を掛けた。
3人で縁側に腰掛けてお茶をいただいていると、聞き覚えのある声が聞こえてきた。五十嵐だ。
「ではまた何かお聞きすることが出て来ましたら改めてご連絡します。それにしても素晴らしいお庭ですね。最近はガーデニングブームらしいですが、私はこういう日本庭園の方が落ち着きますねえ。少し拝見してもよろしいでしょうか。」
「どうぞ。今日は植木屋さんが入っているはずです。私はあいにく庭には詳しくないんですが。なかなか時間も取れないものですから植木屋さんに任せっきりで、祖父の頃の庭をそのまま手入れしてもらっているだけなんです。ああ、笠松さんいつもお世話様。」
「おはようございます。今さっき終わりましてお茶を頂戴していたところです。」
「あら、今日は女の方もいらっしゃるのね。」
「ちょっと手伝いを頼んでまして。」
この家の主人であろうその女性に咲は無言で頭を下げた。咲と同年代に見える。
「ちょっとお客様に庭をご案内しますね。」
「では私達は始末をつけてから失礼しますんで。」
庭に戻って片付けをしながら二人を目で追うと、たしかにこの家の主人は庭にはそれほど関心がないと見えて、花を付けている木々の名前も定かではない様子だった。
帰りの道すがら、咲は笠松に尋ねた。
「あの庭はもう長いこと手入れされているんですか。」
「そうだなあ。もう20年以上だな。先代が亡くなった後、さっきのお嬢さんがまだ学生の頃からだからな。」
「すごく立派な庭でしたね。笠松さんが作られたんですか。」
「いや、俺は手入れを引き継いだだけなんだ。元々は知り合いがやってたんだよ。」
「その方はどうされたんですか。」
「ああ、そいつは若い頃からあのお宅の植木とそれから池の錦鯉をやってたんだ。先代が鯉に凝っててね。そいつの実家は元々錦鯉を養殖してたこともあって、植木と両方任せられるってんで重宝されてたらしい。先代が急に亡くなってしばらくした頃だったと思うけど、ちょっと都合で手が回らなくなったって言う話でこっちが引き継いだんだ。でも俺は鯉は素人だから植木だけね。」
「錦鯉ですか。さっき御主人がお爺様の頃の庭を手入れしてるだけって仰ってましたけど、笠松さんが来るようになってから新しく植え替えたりした木ってあるんですか。」
「いや、ないなあ。一度どうにも育ちが悪くて寿命って木があって植え替えしましょうかって言ったんだが、これ以上増やさなくても良いって言われてさ。それからはとにかく今の木を生かすようにってそれだけ考えてるよ。」
「そうですか。なんて言うか、あの方あんまり庭に興味があるようにはお見かけしませんでしたね。」
「まあ、今時の人は日本庭園よりはガーデニングってやつの方がいいんじゃねえの。あのままにしてるだけでも立派なもんだよ。」
「その元々あの庭をやられてた方って今もお知り合いですか。」
「それがそのあとそいつが仕事をやめたって話が聞こえてきて、それっきり連絡もなくなったよ。横山って奴だったよ。」
「もしかして新潟出身じゃあないですか。」
「たしかそんなこと言ってたな。どうして分かったんだい。ああ、錦鯉か。」
「はい。うちの父方も母方も錦鯉の養殖してたんです。」
「長谷川さんも新潟出身なの。」
「そうなんです。」
「へえ。たしか五十嵐君の両親も新潟出身だったんじゃないか。」
「そうみたいですね。ところで今日はとても勉強になりました。それでこれからなんですが。」
「またあの庭の手入れをする時には五十嵐君に連絡するよ。」
「やっぱりお分かりでしたか。ご迷惑をおかけしてすみませんでした。」
「えっ。長谷川さんこれからも手伝いに来るんじゃないんですか。助かるのに。」
「まあそのうちな。」
さすが刑事の父だ、察しが良いこと。きっと息子さんも優秀な刑事なんだろう。咲はそれ以上何も聞かないで済ませてくれた笠松に感謝しながら車に揺られた。そのうえ笠松は最寄りの駅で咲を下ろすという気遣いまでしてくれたのだった。
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