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「結婚」にまつわる呪いを解きたい

※以前書いた文章の再録です

京都の鈴虫寺をご存知だろうか。京都でも有数の観光スポット・嵐山にあるお寺に、この春訪れた。収容人数100名規模の書院には、なぜか2000匹の鈴虫が飼われていて、りー、りー、と美しくはあるがあまりに盛大な大合唱の中、僧による30分間の説法を聞くことになる。その説法がまた、ちゃんと現代を反映した心にしみる仏教講話にはなってるのだが1分に1度はギャグを挟んでくる漫談スタイルで、聴衆の心を強引に奪っていくのだ。拝観者誘致のためのいろんな工夫の成果なのだろうが、設定の一つひとつが、どうもクレイジーである。

鈴虫寺にはこの説法のほかに、かなり人気の名物がある。「ひとつだけ、なんでも願いを叶えてくれる」というお地蔵さまだ。説法を聞くとお守りをいただくことができ、それを掌に入れてお地蔵さまの前で願いごとを念じるとその願いが叶う、というシステムになっている。

このクレイジーなビジネスモデルがけっこう気に入ってしまったわたしは、素直に願いごとをすることにした。真剣に願いごとを検討しはじめるが、なかなか定まらない。子どもたちの分はそれぞれお守りをいただき、彼らが願うことが叶うよう念じたからオーケーだ。仕事のことや健康のことなどは、毎年初詣に行っては息災に過ごせたことを感謝して今年もがんばります、と決意表明しており、願いごとというにはちょっと当てはまらない気がした。純粋に自分自身のことで、自分の努力だけでは切り拓けないことってなんだろう……。そこまで考え至ったとき、わたしはごく自然に、お地蔵さまに向かって声には出さずとも強く語りかけていたのである。

「彼氏が……ほしいです……!!」

40代後半、ティーンエイジャーの子ども二人。夫とは不和により別居中。しがらみだらけの人間が繰り出すにはあまりにピュアな願いなんじゃなかろうかと、自分でもちょっとびっくりしてしまった。でも、子どもたちとの生活、そして波風が立たないことによるみずからの心の安定という最優先事項をとっぱらってみると、そんな思いが顔を出してきたことについては、自分のことながら意外であり、おもしろいものだなとも興味深くもあった。
意外だったというのは、わたしはもうずいぶん長いあいだ、「結婚とか誰かとつきあうとか、もうこりごりだ」と考えていたからだ。周りには離婚を経験しながらも積極的に、あるいは自然なかたちでまた新しい出会いを得て幸せな2度目、3度目の結婚に至っている友人もたくさんいる。それを羨ましい気持ちで祝福はするが、いざ自分もと想像してみると、「もう煩わしいな、特定のパートナーがいなくても、友だちと楽しく過ごせれば十分じゃないか」という心持ちになっていた。

そんななか、「結婚」というものを、なにかすごく価値の高い人生の獲得ポイントであるかのように扱うひとのことばを聞くと、とてもいやな気持ちになる。「あのひとはバリバリ仕事してるけど、婚活いっしょうけんめいやってるんだよ。いい年齢だし、やっぱり子どもほしいだろうと思うんだよねえ」とか、「親戚の女の子がもう30歳になろうというのに独身なんだよ。『なんで結婚しないの?』って聞いたんだけどさあ」とか。

思い出して書き出してみると、じっさい無神経すぎて、こんなの誰でもいやな気持ちになるわと苦笑してしまった。ただ、りっぱな人生を生きるには結婚というピースが必要、と信じて疑わないこれらの発言に、結婚して子どももいるわたし自身が傷ついてしまうのは、うまく“結婚”ってものを営めない自分に始末がつけられていないからだろうと思う。

結婚というのはつまり、互いのリソースを分け合い共有することを社会的なルールとして固める、という目的が基盤にあるんじゃないかと思っている。たとえば外で働いて収入を得てくること、家のなかの仕事を引き受けること、ともに子どもを守り育てること。生きていくために必要なことを、互いのリソースを出し合って、ひとりでいるよりも良い形でクリアできるようになるというのが、結婚の意義である。暮らしの基盤が殺伐としていては安心して生きられないので、居心地の良い関係を構築することはだいじだし、浮気を許せないのは、時間や金銭など、本来自分に向けられるべきリソースを他者に奪われて基盤が揺らぐ危機感からだろう。

わたしが夫とうまく結婚生活を続けられず、別居に至ったのにはいろんな理由があるのだけれど、自分自身の問題としてずっと重くのしかかっているのは、この「リソースをうまく分け合って互いに心地よい暮らしをつくる」のがものすごくへただということだ。もともと、劣悪ではないがコミュニケーションに欠けることの多い家庭に育ったわたしは、どんなふうに振る舞えば心地よい家庭がつくれるのかよくわからない。掃除も洗濯も料理もぜんぜん好きじゃないのにぜんぶ引き受けるはめになっていて、納得いってないのに改善の提案もうまくできず不満だけがたまる。本来家では誰とも話さず読書に没頭していたいのに、家に誰かがいて相手をしないといけないのが煩わしい。「遅く帰った家族のために夕飯を温め直してあげる」というような発想ももてず自分でやれるよねと思ってしまう。

ずっと、わたしのような思いやりのない者は誰といっしょにいてもうまくやれないと思ってきた。だから夫との仲を修復することも、離婚して新たな恋人を求めることもむつかしいだろうと。いつしかそれは、自分で自分にかけた呪いのようになっていた。だから鈴虫寺のお地蔵さまの前でごく自然に「彼氏がほしい」なんて願いが浮かんできたことはかなり意外だったけれど、お地蔵さまの力を借りることで、呪いをちょっとだけ解いてやる気持ちになれたのはとても嬉しい変化だった。

じっさいのところは、子どもたちが高校生、中学生になって巣立ちのイメージがだんだん具体化し、じぶんが再度ひとりになってどう過ごすのか思いをいたすようになったからかもしれないし、夫といたころの怒りや悲しみの感情の渦が時間によっておさまり穏やかになっているからかもしれない。ただいずれにしろ今のわたしは、ずっと唱え続けてきた呪いの言葉をやめにして、自分を許してあげようというフェイズに入ってきているのはまちがいない。

結婚に対してはいまだに、自分と相手の領地を互いに開放していっしょに統治していく、みたいな感覚があって、わたしには難易度が高すぎる。ぜったいに入ってほしくない自分だけの巣を心の中に持っているから、そこに踏み込まれたらと思うと怖くてしかたがないし、踏み込まれないようにバランスをとれるほど器用でもない。そこまで求めるのはわたしにとって酷というものだ。これ以上、苦手なことをみずからに課す必要はどこにもない。ただ、だからといってずっとひとりでいなきゃいけないってわけでもないんじゃないか。一度は結婚し、育てた子どもたちが巣立ちの準備をはじめている今だからこそ、苦手な「結婚」を意識しない関係構築も可能かもしれない。仲のいい友だちに囲まれている今も十分に楽しいが、自分がここにいて良かったんだと思えるような一対一のパートナーがいたら、もっといいなと思うようになったのだ。

ここまで進んでくるのに10年くらいかかってしまったが、わたしにしてはよくやった。誇らしい気持ちである。しかし、じゃあわたしは「彼氏」に何を求めているのだろうとあらためて考えてみると、またよくわからなくなってしまった。いっしょにいるからには、何か互いが互いにとって良くなるものを交換したいと思うのだろうが、それがなんなのか、明確なイメージがもてない。これはまだ答えが見えないまま、探しつづけるしかないのかと思考の堂々めぐりをしていたら、たまたま読んだ文章に、まさに胸をつくような一節を見つけてしまった。

それは、いまやネットで、更新されるたびに感嘆と称賛の嵐が起こる鴻上尚史さんの「ほがらか人生相談」だ。恋愛をしたことがない25歳の女性に恋愛の始め方を勧めるというテーマの回答にて、鴻上さんはこう語りかけていたのである。

「何度も会っているうちに、お互いの存在がお互いの心の中で呼吸を始めます。
 美味しいものを食べたら、あの人にも食べさせたいと思い、美しい風景を見たら、あの人にも見せたいと思い、楽しいことがあったら、早く話したいと思い、悲しいことがあったら、胸で泣きたいと思う。
 それが恋愛の始まりです。」

このことばは、枯れかけた草花が水を与えてもらってふたたび頭をもたげ、みずみずしい緑をとり戻すかのように、わたしの心をよみがえらせてくれた。そうか。わたしは自信がなくて、じぶんが相手に与えられるものなど何もないと思っていたけれど、そもそもそんな実利を求めてひとは惹かれ合うんじゃないんだ。

現実の生活には子育てや家事やお金のことなどシビアに考えなければいけないことがともなうのは確かだが、それをないがしろにするでもなく、またとらわれすぎるでもなしに、いっしょに人生を楽しめるひとを見つけることもできるんだなと、ずいぶん目の前が明るくなったような気がする。

鈴虫寺のお地蔵さまは草履を履いていて、我が家まで歩いてきて願いを叶えてくれるのだそうだ。わたしがほしい「彼氏」は、いずれ夫と離婚したのちに出会う、まだ知らぬ誰かかもしれないし、もしかしてもしかしたら数年後、数十年後にふたたび関係が良くなった夫なのかもしれない。いずれにしろ、どうせわたしはだめだという思いは、もうない。たぶんもうお地蔵さまはすでに我が家に向かって出発しているはずなので、楽しみに到着を待とうと思う。

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