ランドセルと時間割みたいな揺るぎのないもの

ちょっと気を抜くとかんたんに一日が過ぎてるのほんとうに怖い。習慣化がとても苦手だ。先日、どんな子どもだった?という話を何人かでしたが、わたしはとにかく特筆すべきことのない子どもでした。そして今よりもかなりきちんとしていた。きちんと次の日の時間割をそろえ、教科書、ノート、教科書、ノートと前から教科ごとに揃えてランドセルに入れていたし下敷きと筆箱を入れる位置も決まっていた。忘れものもほとんどした記憶がない。なぜあんなことができていたのだろう。というよりも、なぜ子どもの頃にできていたことが大人になってからできなくなったのだろう。決算月はとうに過ぎ、税理士さんにさすがにいいかげんにしろよ(意訳)と言われてすべての資料をかき集めているが、足りないものがたくさんある。毎年同じことを繰り返している。年々体力がなくなってきているので、年々悲劇の様相は深まっていく。今年はもう鬱々とした気持ちになって、もうわたしはこの後ずっとひとりぼっち、みたいな余計な気分まで生じている。これはどうにかならないのだろうか。わたしはきちんとしているのではなくこだわりが強いだけのようなので、子どもの頃のランドセルと時間割みたいな揺るぎのないものがついていてくれないかなと思う。

今日ははじめて訪れる街をさんぽする仕事だった。わたし以上に、小さなことを見つけて回るひとたちといっしょに歩き回ったらほんとうに楽しかった。子どものころに囲まれていたような街並みが残っていて、トタンでできた壁や木の窓枠、さまざまな模様の磨りガラスはこぎれいに手入れされており、何十年も経たとしても朽ちて果てる手前で免れて、こうして暮らしていけるのだなあと思った。路地へ路地へと積極的に迷い込んでいくと昭和のガチャガチャ機が設置された駄菓子屋さんに遭遇し、時空が歪んでクラクラする。そっと100円玉を入れてハンドルを回すと思いの外スムーズにガチャ、ガチャ、と回転した。出てきたドラゴンフルーツスライムはざんねんながら、長い時間ここで待ちあぐねていたせいでグミくらいの硬さに変質し、あの、ひんやりとしたねばーーーーという感触は得られなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?