見出し画像

往復書簡:3通目。あざとさのPDCA。

なにか書くことを自分に課したものの、書き続けるのはむずかしい。秋生まれの3人が並んで肉を食らいながら、じゃあお互いに手紙を書くつもりで書いてみましょうかと始めた、これは自主トレです。
3回目の今回は、青葉鈴ちゃんからの返信への返信。

青葉鈴ちゃん

年が明けましたね。いつもに増して年末年始はせわしなく、ちょっとしたトラブルがいくつか続いています。気に入っているピアスを続けて2つ、片方だけ失くしてしまったのは、続く凶事の象徴?どこかにお祓いにでもいかねばなるまいかと思うほどです。

さて、お手紙拝読。前々からそう話しているけど、わたしも鈴ちゃんの言うところには肯くこと多く、じぶんのこころの相似形を見ているようだと思っています。

あざとさを発揮できるひとたちは、一般的にウケるとされている所作と元々親和性が高いという場合もあると思いますが、欲しい結果を得るためであれば他にこだわりなどなくて、相手にウケるものに自分を寄せていくことに抵抗が無いのではないかと思ったのです。

あざとさに反応してくれた鈴ちゃん、さすがです。あざとさについては、いっとき必死に考えを巡らせていて、暗礁に乗り上げたままになっていました。鈴ちゃんの反響を得て、ひとりで煮詰まるよりも考えが少し進んだので書いてみますね。

たしかに。一般的にウケるというとずいぶん節操がないようにも見えますが、さらにあざとさを突き詰めると、相手の喜ぶことを想像してその地点に自分をフィットさせていくということになりますね。いやどうだろう。そこまでいくとかなりの手練れであって、相手や周囲の目にも「あざとい」とは感じさせないのでしょうね。

ちなみに、あざとさを辞書で調べてみると

(1)やり方があくどい。ずうずうしく抜け目がない。
(2)小利口である。思慮が浅い。あさはかだ。

とありますが、現代の使われ方はもう少し変化していて、『実用日本語表現辞典』で述べられている「いたずらに情欲や胸のときめきを掻き立てるような ―― しかもそれが計算ずくで行われている趣のある ―― 仕草やポーズなどを形容する言い方として用いられる傾向」というのがイメージに近いですね。(これ、やけに詳細に考察されてておかしいです。あざといものになにか恨みでもあるのか?)

あざとさは、自分に固執せず相手に合わせていくことのてらいのなさにより生まれるものですね。それと同時にやはり、その意図を隠さなくても、むしろ隠さず示していくことで我は受容される、という確信があるように見えます。

あざとさは、軽薄な空気を漂わせながら、どこか逞しさを感じさせます。目的を達成するためには気恥ずかしさもかなぐり捨てて相手を射止めようとするプレゼンテーション。それを横目で見つつわたしにはできないなとうそぶくわたしは、提示する前から拒絶されることをよほど怖がっているのだろうなと気づきました。

自分はじっと同じところにとどまりながら、こちらに振り向いてもらおうなんて図々しい話なのはわかっているのに、こちらから出向いていって投げたボールが見当違いに飛んでいくのでは、へんてこなフォームで投げようとしている無様な姿を見られて笑われるのでは、もしくはてんで見向きもされず立ち尽くす羽目になるのでは、と思うと思っただけです恥ずかしい。想像しただけで身動きが取れなくなってしまいます。

おそらくあざとさの達人は、失敗を恐れたりはしないのではないでしょうか。なんども演習問題を繰り返して、成功のゴールデンルールも獲得しつつ、うまくいかないとなってもそこで過度に落ち込みすぎず、次の軌道修正をしたりターゲットを変えたりできる。あざとさのPDCAをガンガンに回してきた勇者たちなのではないかと思うのです。

鈴ちゃんもときどきご自身のことについて記していますが、そういう怖がりの傾向ってなかなか根深いので、わかったからといってなかなか実践できるものでもありませんね。ボールを投げたい先は、リアルでも文章を通してでも、こちらを向いてもらいたい人、と抽象的な物言いになってしまいます。最近は何がほしいのかもよくわからなくなってきました。

そんなふうに考えているので、わたしは鈴ちゃんが手に入れたいものに向かって力強く一歩を踏み出していくさまは、じつはわりと好きなんですけどね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?