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往復書簡:真城くんへ2通目。

なにか書くことを自分に課したものの、書き続けるのはむずかしい。秋生まれの3人が並んで肉を食らいながら、じゃあお互いに手紙を書くつもりで書いてみましょうかと始めた、これは自主トレです。「他人」をテーマに、せーので書いたお手紙のうち、真城くんからバトンを受け取りました。

2021/12/2(木)

真城くんへ

お手紙拝読。

ひさびさに真城くんの文章が読めて、大変にうれしいです。なるようになれ、とわたしたちに祝福のことばを投げてくれてありがとう。職業作家とは違うわたしたちが、自分の顔をしたままキーボードに向かい綴る文章は、(もしかしたら取り繕ってるつもりのときであっても)そのひとらしさがこんなにも溢れていて、わたしの文章を読んでくれるひともこんな気持ちになってくれてるのかなあと思うとありがたい気持ちも湧いてきました。こういうの、親愛の情っていうんだろうな。

そして真城くんの言う「投げたボールを受け取って、同じくらいの力で投げ返してくれる人の存在」のありがたさは、わたしにもおぼえがあります。というか、そういうものに支えられているといってもいいかもしれない。自分にできることや自分の人生が(人類全体くらいのレベルでいえば)とるに足らないものだとわかっていても、ぎりぎり退屈な日常の中で小さな旅に日々出ていけるのは、同じ気持ちや、ちょっと異なる世界のおもしろさを共有できる人がいるからかなと思います。

でも残念ながら、こういう時間はずっともいつもも続かなくて、なかなかに繊細なバランスの上に成り立ってるよね。真城くんのこの問いには、考えさせられました。

聞き手が誰でも、あるいは話し手が誰であっても、この"適度な言葉のキャッチボール"のようなコミュニケーションが取れるのか?

真城くんが設計した、とあるコミュニティでの対話の場も、もしかしたらこれを試みる場だったのかな、と思ったりしています。人の善意とリテラシーでしか保てないものを、場の設計によって成立させることができるかもしれないという考えは、わたしにとっては新鮮でした。今でもコミュニティに所属している人間にとっては大切な場であり続けていて、創造主である真城くんに感謝しているよ。

ただ一方で、なんのメンテナンスもしないでいると、どうしても庭の草は思わぬ方向に伸びていってしまうものですね。ある程度野趣を残しながらもほしかった果実の収穫をめざすのは簡単ではない。

コミュニティのことから離れて我が身を振り返ってみると、それまでは心地よいと思っていたはずの関係性が、ほんの少しの違和感からボロボロと崩れ落ちていくことがあります。近年でもっとも我ながらひどいと思う崩壊は、長年世話になってきた友人でもあるにもかかわらず、「その人が村上春樹ばりに何かと繰り出してくる比喩表現がことごとくズレててめっちゃイライラするようになってしまった」です。いや村上春樹の比喩が的確なのかといわれるとわかんないしそもそも村上春樹の比喩は合ってるかどうかとかそういう次元のものじゃないしあれはもうお好きな人だけどうぞっていうものでしょうでも考えてみてくださいよあなたの目の前に村上春樹が現れてなにを言っても比喩で返してきてそれがことごとくズレていたら?発狂しますよね?しませんか?

まあそんなことでどうしようもなく居心地の悪さを感じてしまうのは、そりゃあわたしのせいです。そのひとがズレた比喩を繰り出すのはいまに始まったことではないはずですから。おそらく前回書いたみたいに、わたしがつい、ひとを自分の懐に入れすぎてしまうから、近づいた状態が長いこと続くと、ひとり勝手に疲れて閉店、シャッター下ろしたくなってきちゃうんでしょうね。

こういうふうにならないようにするには、設計で解決できることはあるんだろうか?歳を重ねるにつれて少しは心の結界をじょうずに張れるようにはなったけど、ズレた村上春樹にやられてるようでは、まだまだですね。

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