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ふたりへの1通目 : なるようになるといい。

なにか書くことを自分に課したものの、書き続けるのはむずかしい。秋生まれの3人が並んで肉を食らいながら、じゃあお互いに手紙を書くつもりで書いてみましょうかと始めた、これは自主トレです。初日のテーマは、「他人」。

拝啓。ふたりの友人へ。

もしこれが物語だったら、"〜あれから数年後〜"と、すっ飛ばされそうな毎日を送っています。ですのでこれといって面白かった話も、日常も、引き出しもなく恐縮なのですが。

先日は10月生まれの会(名前は仮、10月生まれが集まってごはんを食べただけ)に呼んでくれてありがとうございました。某サロンの原稿課題が相変わらず書けないという話を伺い、僕もその辛さを思い出したのか、なんだか他人事とは思えず、なんとか筆を進める糸口を掴んでくれたらいいなと思いました。恥ずかしながら往復書簡という書式を知らなかったのですが、一人で抱え込んで書けないなら三人で考えて、それで文章を書くトレーニングまでしてしまえばいいじゃないか、僕もなんだか挫折して書かなくなったし、と、この往復書簡のお話をお引き受けしました。いや本当に、面白そう、って思ったんですよ。

それでテーマを選ぼうということになり、どうせなら3人が悩み苦しんでいる(それをテーマに文章を書こうとすると、って意味でですよ)ものがあるねという話になって。じゃあその「他人と関わる」について書くしかないなと思いました。もうね、

バカッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

本当にごめんなさい。軽はずみでした。せっかく3人でリハビリしようってところにフルマラソン持ってくる馬鹿はいません。いました、僕ですね。

はい。そんでね、言い出したからには何かしら書かなきゃと思って、自分はどうだったかなーと思い返してみたんですが、僕が人と関わる機会といったら、日中のお仕事と、その後のSNSの友人との夜ふかしくらいでした。

唐突ですが、つい最近まで僕は少し落ち込み気味でした。主な理由はおそらく、在宅ワーク疲れ。ここ1年半ほどはほぼ毎日、オフィスで同僚とも会わず、たった一人の自宅で仕事をすすめる毎日でした。職場でのコミュニケーションは基本、感情の温度を読み取りづらいテキストベースのチャットツール。面と向かって言われればなんてことない指摘や、時には完全な善意によるコメントにも、なにか裏の意図があるのではないかと勘ぐってしまう。

マイクとスピーカーを介して話すにしても、チャットやDMで一言必要になるし、返事が来るまで十数分かかる。通話中は回線の問題で相手の音声が途切れたり、突然通話から居なくなり、反応がなくなったりするストレスは皆さんもご存知の通りでしょう。

仕事中の「ちょっと見てもらえませんか」までの距離がすごく遠い。本当に困るまでもくもくと作業を進め、たんたんと進捗を受け渡す。そして特に褒められることも貶されることもなく、次の作業が流れてくる。

雑談が殆ど発生しないから、業務とは直接関係ない考え事や悩み事も共有しにくい。ぐっと飲み込んで「大丈夫です」と言ってしまえば仕事は進むし。なんというか、人を信頼していないわけではないんですが、安心するのが難しかったのです。「こんな話をしたいな」と思っても、たとえそれが仕事に関係することであっても壁を感じて、疲れていったのだと思います。

一方で、仕事の終わりの友人と遊ぶゲームや雑談の時間は格別に楽しかった。本当に、ただのくだらない雑談でしかないのに、使わなくなった表情筋と顎の付け根の関節を酷使して顔面が痛くなるまで笑い続けた夜もありました。僕の投げたボールを受け取って、同じくらいの力で投げ返してくれる人の存在を感じる。その存在に救われ、感謝した夜は数え切れません。

あーあ、仕事もこんなふうに、楽しく、あるいは心理的安全を感じて進められればいいのに。と思わなくもないですが(まぁ難しいよね)、でも同時に考えるのは、プライベートな友人関係であれば、聞き手が誰でも、あるいは話し手が誰であっても、この"適度な言葉のキャッチボール"のようなコミュニケーションが取れるのか?ということでした。そう、話したかったのはリモートワークの辛さではないのです。長々とごめん。

つまり、方法論的にこういった理想的な?コミュニケーションを作ることはできるのか。

もちろんそんなことはなく、実際にあるのは「相性が良かった」「話してみたら偶然楽しかった」という結果論だけ、だと思います。これは僕の感覚的な話でしかないけど、狙って作れるものではないし、色んな人と話す場面を思い返して、おんなじだと感じることはできない。僕の知り合いにも、人の声にめちゃくちゃ被せて話すような人がいるんだけど、それは"巷の方法論"的には良くない喋り方だけども、その側には頭の回りが早く、気配り上手の人がいる。こう書くと、前者が好き勝手喋って後者が合わせてあげてる、ように見えるけど、実際はその気の回る人もとても楽しそうにしていたりする。

こういうのを見るたびに、相性の良さ、楽しさって偶然生まれるものだなあと思うし、偶然生まれるからありがてェんだなあと思ったりするわけですね。

* * *

他人というのは複雑で、というかよくわからんように出来ていて、例えば相手を信頼し会話が弾んでいたとしても、話せない話題があったりしますよね。今は笑ってくれているけど、こっちの話題は嫌いだろうなってこともあるし、本当はこの話したいなって躊躇う瞬間がある。予測出来ず地雷を踏み抜くことも、身構えた割にあっさり受け入れられることもある。他人がどう思ってんのかわかんないし、こんなこと書けば冷ややかに見られるんだろうな、自分は浅はかなことしか言えないなあ…、とか思うので原稿が書けない。アーア、これは愚痴ね。

僕の友だちには、他人を傷つけ、そして自分が傷つくことを避けようとするがあまり(ってのは僕の決めつけなんだけど)、押し付けがましいことを一切言わないと誓っている人がいます。内心思っている、目の前の人に似合いそうな服や靴、自分の好みまで。言えばいいのにねー。受け取るかどうかなんてその人が決めることなんだし。

でもその人にとっては本当に苦しいことかもしんないしさ。僕も大概ビビリだから、そいつに「僕には言っても大丈夫だよ」とか言えない。今度、「こんなこと言うのは烏滸がましいと思うんだけどさ、」と前置きして、「僕にも言いづらいこととかって、ある?」と聞いてみようか。「うーん、そんなに・・・・ないよ」なんて返ってくるんだろうな。うん、聞かなくてよし。

そいつも、みんなも、なるようになればいいなあ、と思う。なるようになれ。「こうなればいい」とかではなく、なるように。

なんだかそれっぽく締めますが、僕らのこのやり取りも、なるようになれば、いいですよねー。


                       2021/11/13 真城 ひろの


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