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ふしぎの国の整骨院に迷い込んだ話。

昨日のことなのにどうしてそういう話になったのかはまったくおぼえていないのだが、たいていそういう記憶にも残らないようなきっかけで人生の冒険というのははじまるものだ。その日はたまたま近くにいたアキコさんほか友人何人かと合流し、いっしょにノマドワークするつもりだったのがPCを開けることもなくおしゃべりに興じ、そのまま鬱蒼とした焼鳥屋になだれ込んでしゃべり続けていた。そうしてアキコさんが、以前通っていたとても腕のいい整体師の話をはじめたのである。

彼は、ボキボキと骨や関節を鳴らしたりぐいぐいと体をダイナミックにいじったりといった整体という言葉でイメージしがちなムーブはせず、ほんの少しのずれを正しい位置にちょいと戻すようにからだを触っていくのだが、それが終わるととても体調がよくなるのだという。人気のある整骨院で場所もおしゃれタウンの目抜き通りにあり、タレントのような女の子もすれ違うことがあるそうだ。でもその整体師さん、なんかおもしろくてね、と、人生においておかしなひとやものごとに遭遇する名人であるアキコさんが続ける。背骨をいじるときに手を当てながら「さわさわさわさわさわ……」ってめっちゃ小声で言うの。思わず吹き出しちゃうんだけど、「なんで笑ってるんですか」って言うんだよね~。

背骨に側弯の症状があり姿勢も悪いわたしはよい整体を常に求めており、腕がいいという時点ですでに惹かれている。しかし腕がいいなどという凡庸な美点だけでおさまりようもないその奇妙さはもはや見過ごすことはできない。焼鳥を喰らうその場で予約専用LINEを登録し希望日を伝えた。すると焼鳥屋を出て家路につく山手線内でもう返信が来た。明日の18時が空いています。迷うことなく予約を取りつける。

その名は、S整骨院としておこう。

当日は首尾よく一日を過ごし、遅れることもなく余裕をもってS整骨院にたどり着くことができた。マンションの一室のドアの前に立ち呼び鈴を鳴らすとS先生がみずからドアを開けてくれる。柄本明をもう少しクセを薄めて健康的にした感じというのか。ひとのからだのメンテナンスをするひとはたいてい、体型はしっかりしているが無駄な肉は一切なく、それなりに年齢を重ねていても肌の張りがよく血色もいい。じぶんのからだもうまくメンテナンスできているのだろうか。うらやましいことだ。

ひととおり問診票に記入をし、自分が悩まされている身体症状を伝え、着替えを済ませていよいよS先生にからだを診てもらうことにする。施術をはじめる前にS先生のからだの整えかたについて考えを聞かせてもらうが、車の整備にたとえて丁寧に説明してもらうもののいま一つぴんとこない。しかしこの自分が施せる技をまったく言語化できていないさまはむしろ好感がもてる。なんといっても背骨をたどりながら「さわさわさわさわさわ…」と口に出てしまう男なのだ。

満を持しての施術開始。一体いつ、さわさわ言うのか。最初からか。それとも。どんな小さな呟きも聞き逃すまいと耳を研ぎ澄ます。しかし吹き出してはならない。いまだかつてない緊張感みなぎるボディメンテナンスがはじまる。

***

ところが施術がスタートしてわたしは拍子抜けしてしまった。はいそこに立ってください、と言われて背中を向けるとS先生が骨格や姿勢のチェックをはじめる。ここで言うにちがいない、いや今言わないならいつ言うんだという絶好のタイミングをいきなり迎えてワクワクは最高潮に達したが、先生はそんなわたしの興奮に気づくようすもなく淡々とチェックをこなしていく。はい。うんうん。左の側頭部が腫れてますね。そして背骨の3番目と4番目。すうーっときて、ああ腰のところ、くの字に曲がってますね、そして左足が固まってます。はい、じゃあ直していきますね。横になってください。

言われなかった。さわさわさわさわさわって、言ってもらえなかった。

わたしは選ばれなかった。やはりアキコさんだからそういうおかしな目にあうのか。いやきっとアキコさんが笑うから、なんならタレントみたいな女の子も笑ったのかもしれない、それで恥ずかしくなってさわさわ言うのやめちゃったんだきっと。

言わないものはしかたがない。諦めてあとは素直に身を任せることにした。そもそもここは整骨院なのだから、おもしろくなくてもいいのだ。さあ、わたしの歪みを見つけだして直していってくれ。

施術はたしかにアキコさんの言う通りのものだった。骨や筋肉の流れに沿って手を撫でるように走らせ、少しのストレッチを入れたりしながら、手際良く何かをしている。気持ちいい、効くといった感覚はまったくないが、少し押すだけで痛いほど張っていたからだの部位が、先生が何かを施したあとはふんわりとほぐれていく。

S先生はわたしの好きなタイプの整体師だった。わたしのからだの弱いところ、歪んでいるところを一つひとつ挙げて、それを直しますよとていねいに宣言してくれる。わたしは自分が一体どんなものなのか、何を求めているのかいつもわからなくて、信頼している人にああだこうだ言ってもらうとなんだか安心するのだ。

10分ほど経ったころ、施術を止めることなく先生が言う。あのね、この治療では内臓も動かすんですよ。
そういえばアキコさんもそんなようなことを言っていて、すごいものだなと思っていたところだ。どうやるのかなと思っていたら、先生は、さらにわたしの腹部をじっとやさしく見つめ、言葉を続けける。はい、いま子宮にね、言いましたからね。動けー。動けー。

わたしはびっくりしてしまった。子宮に話しかけられたのは生まれて初めてだったからだ。骨格が動いたら内臓の位置も変わるだろうなと想像はしていたが、先生はとくに触るでも骨盤をどうにかするでもなく、わたしの腹部に優しく声をかけている。動けー。動けー。はい、動きだしました。
まじかと思ってつい声をかけてしまう。

「あっ。動けって言ったら動くんですか」
はい、動きます。背骨もね、動きますよ。側弯症で曲がってる背骨も、そろそろもとに戻ろっかあ、って今なってるんで。動きますよ。

「あっ。戻ろっかあ、って言ってるんですか。背骨が」
はい、言ってますよー。

小学校6年生のときの検査で発覚し、以来30年ほど曲がったままの背骨が、今、もとに戻ろっかあ、という気分になっているそうだ。どうしたら背骨をそんな気分にさせることができるんだろう。少なくともわたしには子宮や背骨の声は聞こえないし、体のなかでゴゴゴゴゴゴ……と固く閉ざされた扉的なものが開くような音もしない。

劇的な瞬間は訪れないまま施術はつづく。さらに5分ほど経ったころ、先生がわたしのおなかをくるくる、くるくると軽く撫でた。はい、整体やってからだが疲れてきてるから、ちょっと元気をあげます。

「あっ。いまわたしのおなかに、元気くれたんですか」
はい。元気あげましたよー。
まじか。元気をわけてもらったのも生まれて初めてだ。これが元気玉か。初めての経験がつづくあまり、つい反応してしまう。わたしがいちいち驚嘆の声をあげるのも意に介するふうもなく、S先生の治療は続く。さらにしばらくすると先生はわたしの子宮がいい感じに動きはじめました、と告げた。そこでわたしはまたオウム返しだ。

「あっ。いま動いてるんですか。わたしの子宮が」
そうです。こんなふうに動いてます。このね、ぼくの両腕が卵管、こぶしが卵巣ね。で胴体が子宮だとすると、こんな感じです。そういうとS先生は背中を丸め、両腕をうねうねと動かしはじめた。その暗黒舞踏的なあまりに不気味な動きに、さすがにわたしも面食らってしばし絶句してしまう。

「……あっ。そんなふうに動くんすね、子宮は」
はい。こんな感じで動いてますよー。ちゃんといいところに戻ってきました。

子宮が暗黒舞踏的に動いて適切な位置に戻ったそうだ。それはよかった。自分自身では体の内部の変化を自覚することはできないままだったが、その頃にはわたしはS先生の言うことはきっとほんとうなんだろうなと思うようになっていた。だってインチキや集客のための演出にしてはあまりに奇妙だからだ。いやわからない。わたしは騙されやすすぎるのかもしれない。

そのあとも15分ほど施術は続き、そして終わった。診療台から立ち上がり姿勢のチェックをおこなう。あっ。目も直しちゃお。先生はそう言ってしばらくわたしの眼球をくりくりマッサージしてくれた。はい、これでよし。目を開けたら、ここのところ疲れ目ドライアイ近視老眼ですべてがかすんで見えていた視界がクリアになっていた。

さらに自分の体を点検してみると、背骨が弯曲しているために左右で異なっていた背中の肉付きが、背骨を中心に対称になっていた。そして常に心許なかった重心がしっかり定まってよい姿勢で立てる。心底驚いた。

しばらくきょとんと立っているわたしを前に、S先生ははい、これでよくなりましたー。ばんざーい。ばんざーい。と両手を上げはじめたので、わたしはまたもう、びっくりしてしまった。びっくりしたまま、わたしも先生に合わせて両手を上げる。

「あっ。よくなったんですね。ばんざーい。ばんざーい。」ばんざーい。ばんざーい。

こうしてからだの歪みが正され新しく生まれ変わった新・わたしを祝い、万歳三唱をもってS整骨院での治療は幕を閉じたのであった。

***

追記。その後1週間ほどになるが体調はすこぶるよい。ちょうど仕事が忙しくなって、そうとう根を詰めて働いているが、いつも感じているからだのだるさがなく集中力が続いている。これはまちがいなく、S先生が元気をわけてくれたからだ。ありがとう。またつらくなったら行きます。

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