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8/9 思いわずらうことなく愉しく生きよ。

以下、日記

 週に3回は本屋に行くし、気になる本の情報はTLにも流れてくるから、新刊情報には敏感な方で、収入ができて購入する量も増えた結果、赤字国債の仕組みをリアルに体験している。
読む数より買う数の方が多いから積読が一向に減らない。
いま読んでる本、以外は隠した方がいいのかもしれない。目に見える量が、無駄な焦燥と充足をそのときの気分でもたらしてくるし、それはたいてい前者で、読まなきゃなあと思うと無意識に入ってくる質が下がる気がする。だって、全然語彙が増えてない。少しがっかりした。
このがっかり、を言い換えられる何かを、何個も持ってない。うーーーーん。

 今日は江國香織の『去年の雪』を買って、あまり読んでない作家ながら、何か好きなものがあったからきっと好きだと思って『思いわずらうことなく愉しく生きよ』も文庫で買った。文庫ってすごい、いつでも読める。

 30代を迎えた三姉妹それぞれの生き方を異性との関わり方で並べていく物語で、タイトルは彼女たちの父が定めた家訓。
どうせ死ぬんだから、という上の句が抜けているものの、命短し恋せよ乙女、が二段回進化したタイトルかよ、と思って読み始めるとあながち間違ってなかった。(時空を超えたいま、の最近である9月20日に読み終わった金原ひとみ『fishy』と構成が似ていて、3つの視点を交換しながらも時間の流れは往来しない)

 恋愛という名の錯覚によって選んだ相手、多くは異性だが、それらと家庭を築いて人生を作ることが人間の目的で、そのためにできる「段階」は全て挑もうと考える三女・育子は、毎日日記つけていて、日々の記録というより内省的な、人が生きる理由とかそんなことを書いている。姉妹の中で一番、性と感情を切り離した思考を持つからか、特定の恋人はいないし、男を想うことも少ない。しかし毎朝母に電話でおはようと伝える、家族の愛を知っている。

日記には、その日一緒に焼肉を食べ、アパートまで送ってくれた男は登場しなかった。育子には、それはもう過ぎたことだった。過ぎたことを書いてみても、一体何になるだろう。(p.41)

 普遍的なことを考えるのは毎日の積み重ねから逃げていることだと考える時期があったと思う。だから毎日その日のことをそのまま、過去を過去として描写しよう、と始めたことがいくつかある。でも、生活の速度が増すと、その日の過去を振り返ることで精一杯になって、その行為自体が魅力的に思えなくなって、結果停止しがちになっているのが現在。
 過去といまを繋いで、ちょっとした結論めいたものを紡いでみようと思い立ったところで、いまと繋ぐ過去の点なんて未来の自分はなにも覚えてない。フォルダに振り分けるにしてもその作業も魅力的に思えない。
そう考えると、自分が主人公である領域だけのことで、さらに自分を変化更新させていく材料になるようなものだけは、自分の身体で生きていくうえで忘れにくいものとして蓄積され、あるいは書く気力を与えるものなのだろう。
それは、こんなnoteなんかで#日記#エッセイなんかつけてるやつの文章に存在しているはずがない。過去を過去として少し盛り付けて、他人にアピールするための文章としている以上、考えるだけ無駄だ。前提が違うんだからいくら育もうとしても根が張らない。
超個人的な記録という、いちばん日記らしい日記が、毎日育子がつけているもので、これは日記ではない。

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