2/3 ダサ

『プルーストを読む生活』が半分まできた。11月から5月までの半年分の日記なので、1月まで読み進めたときに、本の日付に合わせて一日ずつ読み進めようかとも思ったのだけど、さすがにそれは我慢ができなかった。でも、できるだけ日記に流れる時間と歩調を合わせたかったから、一度に二週間分までと制限して読むようになった。人様の文章を一気に体験してしまうと、自分が書くものが中途半端なカルピスになってしまう気がした。
なにより、一度に読み切るとすぐ春が来てしまう。


春休みになった。卒論の直し要請が依然として届かないので、勝手にしゃれこむ。

『新潮』先月号に町屋良平の短編『かれのこえ』が載っている。現地でイタリア人の恋人と結婚する予定だった親友が事故死し、遺品と共にイタリアを訪ねる主人公の三日間の旅行記は、町屋良平らしくなくて首を捻ったのだけど、吉本ばなな『カロンテ』を間違えて読んでいただけのことだった。

『かれのこえ』の方は、作者が去年発表した『ショパンゾンビ・コンテスタント』を読んだ音大生の「かれ」と「かのじょ」が出てくる短編。実際に行われたショパコンを題材にした作品を音大生が読んだという会話から始まる作品で、前作で描かれた二人の男が”天才”と”挫折者”の対比だったのに対し、彼らの物語を読んだのは「妥協サークル」通称「妥サー」に属す二人だ。

かれと何人かで、大学からかえる道をきわめて緩慢な速度であるいていた。巨大な公園をジグザグに割きながら、平日のしずかな午後をあるくので、おかれている状況がどうあっても、しぜん楽観的な気持ちになる。われわれは音大生だったけれど、そうそうに天才と呼ばれ慣れた才能との差をさとり、音楽への没頭をうしない、趣味的に演奏や鑑賞をあじわいながら、なるべく平凡な人生をあゆまかければならないと考えるサークルのグループだった。

冒頭の妥サーたちの帰り道が、開き直りでも諦めでもなくて、簡単な対立が描かれる物語ではないと感じたので夢中で読んだ。
一人でもなければ、真っ直ぐでもなく、音のない深夜でもない。どれか一つでも当てはまっていれば、読む姿勢が変わったと思う。

どれほど平凡な生活をおくったとしてもそれはどこかしら創造的になってしまうものだし、どのような芸術家でもそのいとなみは生活になってしまうし、その境界はぐちゃぐちゃに混ざりあっていて音楽家も世俗や権威争いやマーケットと無縁であることは考えられず、われわれはそのことを早くに知りすぎてしまっただけなのかもしれない。

妥サーに属しながらこれを語る存在の正体は明かされず、「かれ」と「かのじょ」の会話や気持ちについてもこの存在が伝える。『ショパンゾンビ・コンテスタント』では、立場の回転や、物語と物語内物語の曖昧な線引き、楽譜のような文字の配置など、構成の上手さも大きい魅力に感じたけど、この短編はもっとシンプルに、それでも表現行為に支配される実感や復讐がある。妥サーと自虐することに生業の意識を感じる。断ち切ろうと思ってもできない、「かれ」がショパコン2位の演奏を4年間毎日見続けていることも、業の一つだと思う。


『プルーストを読む生活』の著者はまとめ書きをすることがあるというけど、この日記はどれだけ書きたいことがあっても、なくても、毎日書くようにしたい。本を読んでいない日にメモアプリをひらく虚しさも、今の自分には新鮮だ。飲み屋のトイレで読み直したこれを投稿する。

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