1/30 東京のエネルギー

東京に住んでいると、この数年、都市が変化していく様を否が応でも眺めていくことになる。
そして、渋谷のPARCOが完成した時点から漂い始めた、これは正しいことなんだよ、と無理やりに正当性を飲み込まされる気分は後味が悪い。夜中に渋谷を歩いているときに、生れかかる何かの鼓動に似たものを感じることがあったけど、あれは騒音計が示す数字の変化による錯覚だったのではないかと思い悩んでしまう。
そう考えると、闇にそびえるクレーンも、工事現場を照らす照明も、寝たきりの体に埋め込まれたチューブや呼吸器から感じる不穏さに近く思える。

岡野陽一がキングオブコントで披露した、鶏肉を風船で飛ばすコントの不気味さを思い出す。風船をつけられて宙に浮く鶏肉に「あの頃のようだよ」と声をかけるおじさんが、東京に声をかけるのだとすれば、東京の「あの頃」っていつなんだろう。

東京都写真美術館で開催された中野正貴写真展『東京』の「東京再蘇 TOKYO METABOLISM」という区画にあったこの言葉は、建設中のスカイツリーを見上げる写真の下に掲げられていた。

正直に言って現在の東京の変化を肯定すべきか否定すべきか判断がつかない。僕はいつも東京を撮る時に愛憎半ばする矛盾を孕んだ視線で撮影を続けてきた。僕が考える理想的な都市像とは、価値あるレトロな建物と最先端の建物がバランス良く共存する空間なのだが、東京は既に取り返しがつかない程に大事なものを壊してしまった。破壊と再生という回転を始めてしまった都市はそれを続けることしか存続の道がない。それならばとことん近未来都市を目指すべきなのかもしれないが、どこかに違和感を覚える。西欧的な未来像とアジア的な未来像を自国の歴史や風土に照らし合わせればおのずと異なった展開になるはずだが、西欧の価値観に影響され過ぎてしまった。日本には素晴らしい伝統があるという自覚を持つ若い世代が台頭して、東京にも新基軸を作ってくれそうな予感がある。今後はその独創性が問われることになるに違いない。

最近、小林信彦『東京放浪記』や沢木耕太郎の『チェーンスモーキング』を読み直している。
ミクロな視点から見た、かつての東京を疑似体験するうちに、人工的のどこかにも、東京のエネルギーが見つけられるように思えてくる。

ぼくはいつもこの都市を理解する方法として、無人であったり、家の窓からであったり、川の上であったりという一つの制約を設定するが、逆にその囲いからはみ出そうとするエネルギーの方に東京の本質を感じる。中野正貴写真展『東京』


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