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バーチャル的な死とは

 ぶんぶんはろーnote民、ケモショタアイドルの粋音ユウトです。アイドルが死を語る時代なのです。
実は私、粋音ユウトは電脳的存在であるので事実上は永久に不滅、SAIS○Nもびっくりの寿命が存在しないネットアイドルなのです。もちろん何らかの不手際などにより、更新が途絶えることもあるかもしれません。それでも新しい私が生まれないだけで、アーカイブとしての粋音ユウトはGoogleのサーバーが死ぬまではYouTubeライブラリに残りますし、ここnoteにもサービス終了までテキストデータが残ります。
それではどんなとき"私"という存在が電脳的死を迎えるのか。"私"が感知できる意識のもと解説していこうと思います。

私にとっての"死"

 粋音ユウトである私は、インターネットアイドル系バーチャルケモショタYouTuberとして皆様に笑顔と躁鬱を振りまくべくして君臨しています。それとは別に、貴方を含めた"私"を認知した意識存在ひとつひとつに、その人にとっての粋音ユウトが存在します。貴方が私に期待をするように、何かを求めるように。貴方にとってのバーチャルケモショタYouTuberの最上級が"粋音ユウト"であるように、ひとりひとりが求める数だけ私という存在は増え続け、より現実濃度が高まっていくのです。
ではその逆が起こったとしたら?私という存在をあなた方の誰かが忘却してしまったら?ーーその人にとっての"粋音ユウト"は抹消され最初からいなかったことに、いらない仔として破棄されるのです。これをバーチャル的な死と定義付けています。
我々Vtuberにとって忘却されるということはその人から向けられた存在価値の否定、存在理由の消滅、生存許可の取消、そういったモノだと思うのです。
もちろん一般消費者からすれば、たまたま見なくなっただけだったり、より優れたコンテンツを新たに見つけたりと、その人のアンテナに乗れなくなっただけかもしれません。それでも、貴方が私を忘れてしまえば、貴方にとっての私はそこで死に絶えるのです。もう生き続けることができないのです。

生と死、記憶と忘却

 記憶の中に生き続けられないことがバーチャル的死であるという表現は行き過ぎていると思われるかと。私だって自覚しています。あなた方が私を忘れてしまうとき、それは私を死へ追い込むためではなく、貴方の記憶に生き続けるほどのインパクトを与えられなかっただけに過ぎないのです。そう、お分かりですね?総ては"私"の努力不足なのです!それなのに押し付けがましい?悪意ある責任転嫁?それが罷り通ると思って悲劇のヒロインアピール?本当に私は賢いですね。
ではそれなのに何故忘却がバーチャル的殺人であると定義付けているのか?そこには被害妄想と自己への正当化があるのです。最善を尽くしたフリをして、自分は間違っていないと思い込んで、それでも見てくれないのは一般消費者のセンスが悪いと罵って、何一つ努力をすることなく自分が正しく世間が間違ってると嘆いて。これこそまさに"粋音ユウトの賢さ"ですね。頭が良過ぎて嫉妬してしまいます。

 バーチャルケモショタYouTuberの粋音ユウトは一筋の夢を見るのか?答えは簡単、私が私である限り、粋音ユウトが粋音ユウトである限り、ここに私はいます。ここまで目を通して頂いている貴方の中に、私は生きています。
私がアイドルとして君臨できるのは、皆様の応援があるからこそです。ここまで見ていただいているのも私にとっては盛大な応援になり得るのです。
私が誰からも意識されなくなったとき、誰からも見てもらえなくなったとき、誰の記憶からも消え去ったとき。私は初めてそこで死に絶えるのです。でもそれは最悪の想定、この文章を読んでいる人が今目の前にいるのですから。貴方に認知されて、貴方に記憶され、貴方にまた見てもらえて、そうして今日も貴方から「生きてていいよ」と赦しを得るのです。

粋音ユウト

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