ちょっぴり疲れてる時こそ「スキ」に原点回帰🐈
推しの言葉が五臓六腑に染みわたるッ!
現世を迷える子羊こと、感情ジェットコースター搭載しています猫暮です。
今日も今日とて不定期&自分自身のデトックスっていう身勝手な日記をつらつらとしたためさせていただきとうござんす。
この番組は「みんなも書こう、勝手に随筆委員会」の提供でお送りいたします。
さて、文章の流れも展開もごちゃごちゃなカオスっぷりからはじまった本記事ですが、言いたいことはもう、タイトル通り。
五臓六腑どれも違わないくらい、タイトル通り。
今こそ「スキ」を思い出そう!ってお話なのです。
最近の猫暮、趣味のゲームやら個人的にお熱なVRコンテンツやら、いろんな「スキ」を試している最中です。
依然に比べたらスローペースだけれど、あいかわらず小説も読み進めていたり。うまいこと可処分時間を区切って区切って、人とのコミュニケーションにも時間をかけてみたり…(あの、言わずと知れた社会不適合者の猫暮が!すごい進歩!)
そんなこんなで試行錯誤しながらも、わたしなりの「スキ」を敢行しているつもり、ではいました。
でも、この「スキ」っていうのがたいへん曲者なことに気が付き始めました。
なんだか好き勝手やってるつもりでも、どうも結果として自分を追い詰めちゃうような真似になっちゃって、わりと落ち込む時期がぽつぽつあったり…。すっかりロストマイウェイです。未知に突っ込みすぎて道を見失う的な。いつの間にかスキまで見失っちゃう的な。まるで某サイレントヒルに迷い込んだ某ジェイムズの気分。
で、ふと、こう思ったりしました。
そう考えると、いろいろ腑に落ちる点が多かったんです。
じゃあ、何と何があるのか。
ひとつは、自由意思に従い自分で選んだ「スキ」なこと。
もうひとつは、自分の中に原初的にある「スキ」なこと。
この二つって、似ているようで、まったく違うことなんじゃないかな~って思い至っているのです。
違いはとってもシンプルで「そのスキが意識的か、無意識か」ってとこがミソなのです。みそみそ。ちなみにみなさん味噌は何派?猫暮は赤味噌派。
へんな例えになっちゃうけれど、猫暮が赤味噌のこと「スキ」な理由って、「赤味噌の味」だからスキなわけじゃないのよね。
はじめて名も知らぬ物体を溶かした汁を飲んでみた時、(あ、これ「スキ」です)って味覚情報が言語野とか全部ぶち抜いて飛び込んできちゃったから「スキ」だって気づいたのです。
だから、その衝撃体験をした後、赤味噌を選んでるわたしってのは、その時の「スキ」の再現とか、「スキ」の反復とかを追い求めてる心の動き?にただただ従っているだけの自分、って感じがするんですよね。
またまた可笑しな例えになっちゃうけど、「スキ(無意識)」をもう一回体験したいから「スキ(意識)」に選んでる、みたいなニュアンス。
大事なのは、自分の中に「無意識のスキ」があるから、それをもっと大切にしたほうがいいのではなかろうか!ってこと。
猫暮は「赤味噌汁を飲むこと」ってのをたまたま発掘できたって感じなんだけど、じゃあそのスキってのは「いつから」私の心の中にあったんだろう?って考察した時に、あっと気が付いたんです。
え、やばい、「スキ」って、私の自我が芽生える前からずっといるんじゃん!え、大先輩じゃん!ちょっとダッシュでパン買ってきます!と、世紀の大発見をしちゃったような顔ではしゃいでました愚かな猫暮。まぁわたくしってばなんて単純ちゃん。物心ついてない童かしら。
でもでも、こんな些細な発見に飽きもせず目を向け続けていると変化が起こります。意識的に「スキ」になろうとしていることと、無意識的に「スキ」なこととの境界が、だんだんクッキリしてくるのです。
それこそ、冒頭で言った「推し」なんかがまさにそう。
あ、推しって、ずばり「元精神科医の名越康文先生」なんですけど!
猫暮、名越先生の軽快かつ深淵なトークがあまりにも、あまりにも好きすぎて、それこそ原初レベルで好きすぎて、一時期ずーっとお経のように垂れ流したり、経典の代わりに先生の書籍を職場に持ち込んでまで熟読したりしてたんです……!もうほとんど中毒状態。
でも、アイドルとかVtuberとか通常の推し活対象とはだいぶ異なる気がするから布教とかは一切せずに、もう自己完結の精神で心の中に留めておいたくらいなのでこの記事で本邦初公開になっちゃうかもしれませんが、いいのです。これもまた心のままに「スキ」でやっていることなので……!
…なんかね、この妄執的なまでの「スキ」ってもはや「選んでる」って感覚すら薄くって、もう、なるべくしてなってるって感じが強いのです。運命的なまでに「スキ」で支配されちゃってるんだなぁと、当時、病的なまでにトークを漁っていた自分自身を回顧しながら思います。
で、時系列が進んで令和7年も間近な今現在。心がちょっぴり不安定になっていろいろ漁ってるとき、パッと目についたんです。Youtube登録チャンネル一覧を上から下にバーーーーッと流したときに、たまたま、たまたま目についた「名越康文TV シークレットトーク」。
これもまた運命的。あれです。Youtubeのレコメンド機能でもなんでもないのです。ほとんど茫然自失みたいな状態でロシアンルーレットの真似事しながらコメカミ打ち抜いてみたら、弾倉に籠っていたのがかつて愛用してた経典(推し)だったって、まるでそれだけの話なのです。
で、開いて、何年ぶりだろう、聞いてみたら、まぁ面白いのなんのって。なんだか最近の悩みが全部、全部ささいなことに思えちゃって、むしろそんな悩みを持っていた自分すらマルっと笑えてしまえる感覚にまでなっちゃったんです!まるで舞台の上から見下ろすような感覚!
それぐらい、「スキ」って感覚が鮮明によみがえってきたんです。
あっ、これこそが原点回帰なんだ!と猫暮、思っちゃったわけです。
これに関連してですけれど、ひとつ面白い構造なんかも発見しちゃいました。
ちょうど、わたしのおじいちゃんおばあちゃん世代って、部屋の片隅にある神棚をありがたがったり、南無妙法蓮華経を唱えたりってことに少なからず時間を割いていた記憶があるんです。それと同じように、猫暮にとっては、スキなこと、今回の場合は推しの話を聞くことそのものが、ある意味で合唱だったりお経と同じような役割を果たしているんだなぁとも感じました。
ステレオタイプな信仰のカタチはすっかり失われちゃったように感じるけれど、構造として「信じるものに時間をかける」って点に目を向けてみれば、どんな世代であれ、今も昔も変わらず人の心の中に信仰の精神はあり続けている気がしちゃいますね。
信仰の対象は多様化すれど、信仰そのものの在り方は長い歴史と文化の中で脈々と受け継がれているのだ!そう考えると、とってもロマンです。
…ちょっぴり大げさ?…いや、わりと的を得ている気がします…!
自分が迷ったり、自分のことが信じれなくなっている時って、知らないうちに「自分じゃない、誰かにとってのスキ」を選ぼうと躍起になっちゃってることが多い。
確かに、それって自由意思で「スキ」に選択していることだけど、一方で、自分の無意識や「自分のスキ」をないがしろにしちゃってる。
たとえば、猫暮のように自己肯定感低かったり、自己受容ヘタっぴ人間がこのスパイラルに取り込まれちゃうと、まぁまぁメンタルが総崩れしちゃう。そもそも、本末転倒感もあるしね。スキとはいったい…ウゴゴ…
だから、一歩立ち止まって、冒頭の命題。
迷える子羊であっても、
自分の中に原初的にある「スキ」なこと。
は、見失わないようにしないとね。
ただし!
これに関しては、残念ながらGoogle先生もChatGPT先生も知らないから、自分の足で探さないといけない。
自分の胸に手を当てたり、時間をかけたり、途方もない数打ってみたり、とっても泥臭くて大変な捜索になるけれど、それでもそばに置いときたいよね。
人の数だけ乳酸きん…じゃなくて、人の数だけ「スキ」があるんですから!
さあ、あなたの「スキ」はどこにありますか?
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