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大好きな漫画読んだらオタクの自己愛があふれ出した話|「正反対な君と僕」「ホリミヤ」

こちら、阿賀沢紅茶さんの『正反対の君と僕』の最新話、とっても良かったっていうオタク前提から始まる記事なんですけども、自己愛について深く掘り下げていて感銘を受けたので自分なりにまとめてみようと思いましたまる。

最近の「○○さんはうんたらかんたら」的な女性ヒロインにフォーカスあたりがちな風潮の中では珍しく、恋愛オムニバス形式かつ王道を征く作品。一昔前だとホリミヤ(堀さんと宮村くん)なんかと題材がとても似通っている。

鬱々とした気持ちを繊細に取り扱っていたホリミヤと比べると(褒めてます)自己肯定感全盛期時代に則った男女の恋物語が描かれている。一見すると陽キャ集団の中に取り込まれる主人公(男)といった構図っぽく見えるが、そこは和洋折衷ならぬ陰陽折衷。物語を一つの側面でなく陰陽の両端から分析やら解析していっててリアリティ溢れる人物描写に繋がり、ベリーグッド。ナイス。神。

いうて、客観的に見てみればばかなり陽に振り切っている感じもする。
というのも「正僕君」(正しい省略系が分からない猫暮の図)はドロドロとした内面描写があまり描かれない。葛藤や疑問に立ち向かっていく若者の青さが前面に押し出されている。その実、おそらく作者さんが登場人物たちに見出している精神年齢があまりに高すぎて、高校生にしては達観した人たちばかりになっている。が!その精神年齢の高さが大人となった読者層にも刺さるので、どんな年代からも厚く支持を得ているんじゃなかろうか!なんて邪推している。

若年層からは「こういう素敵な高校生になりたいな」と憧れ的な視点で彼の恋愛模様を眺めることができ、ある程度成熟した読者層は特有の甘酸っぱさや青さ成分をふんだんに吸収できるハイブリットな作品なのだ。

まぁただ「にしてもお前ら精神年齢高すぎだけどな!」とは思う。ぶっちゃけみんな達観しすぎだし、手痛い失敗というのを彼ら彼女らは絶対しない。といっても、これは物語であって現実じゃないし、何よりもこの作品の本懐は「みんな違ってみんないい」を地で体現していくことにある。だから、イイ。これでいい。最高。ああ、最高だ。全部のカップリング尊いってナニコレ。しかも、ものの見事に全カップルの性格やら性質が正反対なのだ。なにこの幸せ空間。

しかしながら、ある意味で糖分過多みたいな作品。もともと糖分高めのパウンドケーキに飴細工の装飾をくわえつつさらにホイップマシマシチョモランマにしている。その奥深くのコアな部分に隠し味として深い心理描写が埋め込まれているけれど、あんまり表にでてくることはない。うまく登場人物たちの内側に閉じ込めているから、わたしたちはストレスを一切感じることなく観るスイーツパラダイスを堪能できるのだ。

だからこそすごい初期の「ホリミヤ」とかを摂取して栄養バランスをとる必要もある。同じ漫画というジャンルで塩分やら苦味みたいな別の栄養素をとるなら「ホリミヤ」だ。

一応リメイク版が「ホリミヤ」で、原作が「堀さんと宮村くん」だが、断然オリジナルの「堀さんと宮村くん」をおすすめする。「正君僕」に比べたら幾分もビター成分が強め。読解アヘンという作者のHERO(安達浩樹)さんが個人サイトで配信していたころの長編作品。原初にして最強。なんなら現役で更新されていたころからサイトを巡回していたくらいには、オールドファンの猫暮がいうのだ。間違いなくオリジナルが最適解。

この作風の違いは、当時の風潮といった要素も大いに関係していきている。

現代はリベラルと多様性が共通認識として人々のモラルの中に取り込まれているけれど、読解アヘンはいつだろう、18年前くらいから立ち上がったネット混迷期のウェブサイトだ。まだまだ個々の価値観はバチバチに衝突しあっている時代といえる。ぜひサイトを訪れてそのアンティークっぷりを目の当たりにしてほしい。

この時代はといえば、フリークはフリーク、オタクはオタクのままでコミュニティや文化を発展させてきた。交わらない、マジョリティに否定された者たちのあがきと言ってもいい。暗い部分はそっちに突き抜けたほうが狭く深い共感を得られるし、仮初のおべっかは要らないといったスタイルなのだろう。そもそも漫画って文化自体もまだまだ誤解の多い時代だったと思う。いや、何をもって誤解かって紐解くのも長くなるけど、頑固者が多かったのだ。陽にも陰にも。

そういった陰陽の隔たりを「陰キャ代表の宮村くん」と「陽キャ代表の堀さん」といった強烈なキャラクター性で、見事な対比をもって描ききっていた。いうなれば、ホリミヤが取り扱っている題材は「陰キャの希望」のようなものだったかもしれない。あるいは救いとか、救済とか。そういったテーマ性をはらんでいた。とにかっく、孤独なキャラクターがすっごい多いのだ。ヒロインと主人公を除いたって、みんながみんな「孤独」と「無理解」を抱えている。みんな発展途上って感じだし、ある意味で理解されないこと自体に救いがあるような作風になっている。

比べて「正君僕」は「多様性が相互の尊重されること」を前面に押し出している気がする。理解と受容に世界が包まれていて現実もこうだったらいいのになぁ、なんて気分にさせられる。おそらく「人々」の共通意識としての理想の世界を体現しているので、ある意味で功利主義的発想なのかもしれない。最大数の最大幸福。

例えば「正君僕」の世界観においてドロドロすぎるあまりつまはじきにされてしまったキャラクターが設定されていたとして、その存在は絶対に描写されない。だって理想の世界においてそんな人は「いない」からだ。理解されないキャラクターはいない。あるのは「納得感」と「受容」だけだ。というかこちらの作品の登場人物はほぼほぼ全員が「完成」されている。完成された人間にとって「孤独」って無縁になるんだなぁとざっくりと思い知らされた気がした。

一方でホリミヤは「ただ唯一の個人」もしくは「登場人物たちの主観」から理想の世界を追い求めているように見える。つまり「正君僕」の世界観からすれば「いないもの側」の視点で男女の関係が描かれていく。コマ割りの外、フレームの外での出来事だ。デフォルトで世界が自分に向けて(というか主人公の周りの環境)は冷たい態度をとってくるから、その差別や誤解をごく当たり前のものとして取り扱うところから物語が進展していく。

お膳立てされた世界か。
風当たりの強い世界か。

そういった構造の違いが、ちょっと面白いと感じた猫暮でした。
もちろん、どっちがいい悪いって話はナンセンスですよ?
どっちも最高なのだ。バランスよく摂取していけぇ!




あ、そうだ、本筋すっかり忘れていた。

正僕君の最新話でね、自己愛について悩める登場人物がいましてですね。すみません私、その彼がめっちゃ推しなので口調が安定しなくなっちゃうでございますが、恋仲になりそうな女の子との関係をもじもじうじうじと悩むシーンの中で「自分はその子のことが好きなのか」と問答するんです。

で、結論として「俺が好きなのはその子じゃない。その子が俺に向けてくれている肯定感が好きなだけなんだ。これって、ただの自己愛だ」なんて哲学的な答えを出して一旦関係は保留されるんです。
これ深い!って思って!っていうか猫暮もそれタイプだから超共感って思って!

言い換えてしまえば、居心地の良さってことなのかな。その子自身にフォーカスするっていうより、その子の与えてくれるもので安心できている自分、ってポイントに指向性が向いちゃっている。翻って見れば根本的に「人に興味がない」ってことにもつながってくる。

ただね~~これって本当に不幸だとも思う。不幸というより、外から見ている分には、もう、ええ、大好物な幸の薄さなんでございますがね、本人にとっては地獄のような状況だろうなって。だって思考の袋小路だもの。しかも、抜け出したくても本人の意思だけじゃ抜けれない。それこそ人格が180度かわって相手にめっちゃ興味持つ人間にでも変革しない限り二人の関係性に「先がない」んだもの。あ~~~でも大好物。そのもやもやする関係性すっごい好きだわ。でも阿賀沢紅茶先生なら「多様性」に則った最適解を導き出してくれるといった謎の信頼があるからよだれまき散らしながら愛読できるわけでやっば私気持ち悪いなちょっとおさえます。

とにかく。

みんな。

最高の漫画だから読んで。
ジャンププラスなら一定話数は無料だから。
とりあえず。読んでほしい。ごめん今日はただのオタクだった。


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