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歌が詠えないわたし。

カラオケが、好きだけど嫌いな私。

休日の遊び先候補、部活帰り、期末試験の打ち上げ、飲みの二次会会場に、スナックでのデュエット台、いかがわしいホテルの備え付けテレビ。

文化として日常に定着しているカラオケ文化は、日常のどういった場面でも現れる。

私は歌が上手じゃない。
かといって、まるっきり音痴でもない。
そこそこ上手ってほどでもない。
かといってヘタウマという部類でもない。

まるっきりの中間層。客観的な評価で見れば、ど真ん中ストレートくらいの、当たりさわりのない歌唱力。
期待されることもないし、いじられることもない。
とっても普通。だからカラオケは困る。
4人くらいで回しているときが一番恐ろしい。順番待ちの最中、まるで頂点に向けて登ってる最中のジェットコースターみたいな気分だ。
いや3人だって2人だって、厳しい。いつだって動悸はとまらない。
そんな緊張を胸にいざマイクを握ったとしても、特に合いの手もなくフェードアウト。

だから透明人間みたいな様子でカラオケボックスに佇む私。本当に、今のこの場に実在しているのか不安になる。きっと天井から吊り下げられたスピーカーアンプの上の埃と同等くらいの存在感。だから遊び先をカラオケに指定されると、いつもゲンナリした気持ちになる。

歌唱能力は、生まれた時の声帯のカタチでまるっきり決まる。訓練をすることで十分に伸ばせることは知っているけれど、基礎能力には絶対的な差がある。
アフリカ系のスプリンターと日系のスプリンターに埋められない壁があるように、フォームを正しつづけることには限界がある。
「気持ちよく歌う」ためにさんざん努力をしてきたとしてもだ。

「自分さえ納得していればいいじゃないか?」

自分が自分に納得していないから、困ってるんじゃないですか!

そうなのだ。私の声帯は鈍い倍音を鳴らすばかりでちっとも響きやしない。それにスタミナもない。3曲くらい唄ったら明らかに掠れてくる。低燃費で歌ったって10曲くらいが限度だろう。
しかし、歌える人は100曲だって200曲だって歌える。倍くらいの音量で、声帯を存分に震わせて、満足げに歌っていく。

上を見ればきりがない。いや、この場合比較が問題じゃない。
自分が「自分の理想通り」に歌えないもどかしさに長年悩み続けている。これは10年以上に渡って、カラオケって密室空間に入るたびに必ず脳裏に浮かぶ。

納得ができない。上昇志向が強いわけじゃないけれど、どうしても納得ができない。そして改善を試みて、だいぶ聞けるようにはなった。でも、心から気持ちよくは歌えない。気持ちよく歌えたことは、人生で一度たりともない。歌うことは、私にとってそれ自体がストレス発散の役目を担いながら、ストレッサーとして心を締め付けてくる厄介な存在だ。

あ~~~歌を~~~心から~~~うたいたいよ~~~!





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