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自分の過去記事と出会っちゃった話。


「○○さんがスキしました!」で、たまたま現れた私自身の昔の記事。
お、こんな記事も書いたっけな~と、懐かしさに浸りつつ軽く読み返してみました。

私が長らく考え続けており、かつ、実生活に最も密接に結びついてる問題。
それが、この無知のヴェールです。
乱暴に要約すれば「肩書、年齢、背景、全部抜きにしましょう。その上で、正義とはなにかについて、腹をわって話しましょうや」って感じです。乱暴。

一部抜粋してみたり。

え??
誰??

なんかめっちゃ真面目モードで書いてるし、イマの猫暮と比較してみても言葉のチョイスが全然ちがう。わかりやすい。下手したら今の私の文章よりもちゃんとしてる。読み手のことをよく考えている気がする。

間を置いたり、同意を促したり、聞き手が目の前にいることを想定した文章。行間にダミー人形をおいて、言葉のキャッチボールを成立させようとしているなって。

こう比較してみると、イマの猫暮の文章はどんどん間延びしてる。言葉を紡ぎだすことに躍起になっていて、文章をシボるって発想が失われがちだ。

過去の私は、より少ない言葉で現状を明確に語ろうとしているし、当時自分の中にあっただろう疑問に真っ向から立ち向かっている。自分の未熟さなんて承知の上で、しっかり自分の考えを述べている。めっちゃロックだな過去の私。


一方で今の私は、かなり丸くなった気がする。
あきらかに修飾子が増え、微妙なニュアンスをどうやったら表現できるかを突き詰めている。

改行の癖も変わった。
当時は1~2行ごとにかならず改行を入れ、あくまで読みやすさを重視している。少なくとも過去の私の文章のほうが今よりも読みやすい。ひどくユーザーフレンドリーだ。


でも、こうして眺めていると変わっていないこともある。
すっかりマイペースでのんびり屋になった猫暮であっても、意見や意思は一貫している。

「自分らしく幸福に生きる」って目的を真ん中において、そのために色んな課題に切り込んでいってる姿勢は変わらない。

今の私はだいぶポエミー。
だけど、言い換えてみれば、表現をあれやこれやと変えながら自分にとってシックリくる文章をずっと探し続けているともいえる。

もしくは、言い方の角度を少しづつずらすことで、ど真ん中にある核心にスポットライトを当てようと試みてるのかもしれない。意思の中核を浮かび上がらせることで、ふわふわとしてる自分の存在意義みたいなものに、何か意味をもたせたいのかもしれない。

今と過去を比較してみて、一つだけ確信めいたことがある。

私の中心を照らすスポットライトは、この一年で距離をすごく縮めてきたってことだ。

一年前の記事の対象は、「全体」を主体にしてる。
社会の流れ全体についてもう一回考えよう!って問題提訴しながら、サブ的に「私は~~」と意見を差し込んでいる。私自身は脇役なのだ。

主体はあくまで全体(特に自分の所属している界隈)。
なので「誰か」を納得させるための言葉選びに余念がない印象をうける。
「私自身」のための言葉じゃない。うん、ライターとしては大正解だと思う。


一方で一年後の私は、あくまで「私自身」が主体になっている。
とらえかたによっては、わがままで、もっと自分勝手になったともいえる。電波。

でも、中核にあった問題意識はズレていない。
頭の中で描いていた絵空事とか、机上の空論みたいだった世界が、より自分事になってリアリティーを帯びている。

もしかしたら、いろいろ行動する中で「経験しないとわっかんねー!」って感じの経験主義に切り替わったのかしらね?とにかく実感を大切にするようになってる。

かといって、猪突猛進というわけでもない。
賢人は過去に学ぶ、よろしく、この狭い島国の歴史の中でもさんざん議論されてきたことに目を向けたり、それまでただの娯楽だと思っていたモノの背景が見え始め、自分の中で「コンテンツ」から「文化」に昇格していく感覚があったり、あきらかに視野が広くなった。

そして文化の背景には、数多の人の思惑や欲望、情熱や熱意があり、合理性だけでは語り尽くせない無限の広がりがあると気づいた。

「ミルクチョコレートの発明は、自動機関銃の登場よりもずっと後」なのだ。
これだけでも丸二日くらい感激してられる。世界には、そうした衝撃と文化が溢れている。ゲームだけしてる場合じゃないのだ!(のだ、って語尾つけると途端にずんだもんっぽくなっちゃうのだ。困ったのだ。)

広がっていく知見を小さくフロシキに畳み、小脇にかかえて冒険に出掛けていく。
旅先で見つけた「楽しそうなモノ」を持ち帰って、お家でじっくり鑑賞する。

で、文化の芽が十分に咲いたら、フロシキに包んでまた冒険へ。
そんな生活が、私にとってシックリきている。




過去に品性の話を書いたけれど、まさにその内容と一致してる気がする。

心の品性とは
『言葉を100吐き、それを1つの言葉に凝縮する』
『さらにその言葉もう100作り出し、そうしてまた1つに凝縮する』

それらの作業を詳つまびらかに、泥臭く繰り返してきたモノだけが、手にできるものではないのだろうか。少なくとも、凡人が「言わないコト」を繰り返しただけでたどり着く境地とは思えない。
とにかく、吐いて吐いて吐き出す

これからもたくさんフロシキに詰め込んで、まだまだ進んでいきたいな。おわり!

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