言葉を愛そう、言葉が愛してくれないとしても
Salve! (こんにちは!)
私です、"ラテン語たん"です。
常日頃はTwitterで言葉のことを話したり話さなかったりしています。
ふと思い立ってnoteに登録して一週間。
朝起きた瞬間に
「今、私、文章、書ける」
「文章書いて、人間の力、手に入れる」
と脳内の猩々の群れが喚き始めました。
筆を執るとしましょう。
自己紹介、あるいはアレルギーテスト
わざわざ見に来てくださる方には私の人となりはうっすら見えているかもしれませんが、改めて自己紹介をさせてください。
主としてTwitterで、言葉に関することを楽しそうに掴み取ってはキャッキャしている「ラテン語たん」というものです。
「~たん」はその出自にまつわる称号めいたものなので、私が普段から自分のことを二歳児の如く「あのね、らてたんはねー」と一人称的に呼んでいるわけではないです。
趣味、特技、休日の過ごし方、好きなもの、生き様、「地球最後の日に味わいたいもの」――全部の欄に「言語」と書くことで面倒な世事をやり過ごすタイプです。
総じて厄介者だということが概ねお解り頂けたかと思います。ここまでの文章で発疹・かゆみなどを感じた方には私の存在はお勧めできません。
「言語が趣味」ということは――
ティーンエイジャーの頃からそうなのですが、「趣味は言語」と言うだけで褒められます、偉いね勤勉だね素晴らしいね、向学心があるね…などと言われます――いつだって、過剰なほどに。
私にとって言語に関わる行いは「楽しいこと」です。
野球少年がプロ野球を観て、サッカー少年がセリエAに熱狂するように、
アニソン好きがカラオケで8時間耐久アニソン祭りを執り行うように、
コーヒー好きがとっておきの豆を挽いて自分好みの一杯を楽しむように…
私は日々の疲れを「言葉と戯れること」で癒しています。
偉くなどありません。
帰宅して洗い物など必要な雑事をこなしたら、あとは大喜びでポルトガル語の詩歌を翻訳したり、ジャウィ文字を覚えなおしたり、ゲール語の綴りに打ちのめされたりして――そうして心のケアをしてから寝るのです。
晩酌してから寝るとかそういうのと同じです。
繰り返しますが偉くないし崇高でもないです。
言葉が趣味なのは偉いのか?
読書がお好きな方は、「本を読んでえらいね」と言われて当惑した経験がおありかと思います。
楽しくて読んでるんだけどなんだか褒められた、ラッキー、くらいの話。
私も同様にお褒めに与ってきました。褒められること自体は悪い気がしないのですが、その「えらいね」がどこかずれていることに気づいてからは、少し考えるようになりました。
私が言語趣味を褒められる一方で、同じだけの熱量を「ファイナルファンタジー」シリーズに注ぎ込む友人はあまり褒められてはいません。
ふたりとも好きなものに熱中しているだけなのに、何が違うのか?
「ゲームは遊びだ」「楽しいだけのものだ」という人がいます。
言葉だってそうです。
実益のために必死で語学をしている皆さんには悪いけど、楽しいです。
「言語学習は将来に活かせる」という人もいます。
ゲームだってそうです。
ゲームが一部の人のものだった平成初期ならいざ知らず、老いも若きもゲームで遊ぶ時代に通用する話ではありませんね。
というかこの当時私はたしかアイスランド語にドハマりしていたんですが、ゲームの知識とどっちが将来に活きるんでしょう…?誤差では…?
それはつまり時代の偶然
そしてある時、初老の教官に
「昔から外国語学習は高尚な趣味と相場が決まっている」
「ビデオゲームなんて昔はなかった、よくわからんものだ」
という話を聞くに及び、一旦の結論らしきものが見えはじめました。
――私たちは時代の精神にたまたま合ったり外れたりしているだけだ。
端的に言えば、「現代の」「日本の」風土が、たまたま言語学習を「偉いね」って言う流れなだけ。
逆にビデオゲームはたまたま「なんだそんなもの」って言われるタイミングだっただけ。
仮に言語好きの私がもう数百年早く生まれて、それでもなお同じ趣味を有していたら…鎖国下の日ノ本では「異国の教えを持ち込んで人々を惑わした」として罰せられるかもしれませんね。
現代でも場所が違えば外国語趣味が「スパイ容疑」とされうる国はあるかもしれません。
逆にゲームの腕前が社会的地位や栄誉に響いてくる世界もあり得ないわけではない――と当時は思っていましたが、今やそれに近いものありますよね。eスポーツで賞金や栄誉が得られているのだから。
たとえば「和歌がうまく詠める」ことは?
現代日本なら褒められるけどそれだけで生活していくことは難しい。
1000年前の日本ならもっと扱いが良い。
もし日本という国がなくなれば誰も評価してくれず一切顧みられない。
たとえば「大嵐でも絶対に船酔いしない」ことは?
漁業がメインの文化圏なら英雄扱いかもしれない。
現代日本、都内のオフィスで働くなら世間話のネタにしかならない。
逆に「海の悪魔の手先だ」って言われる文化だってありえる。
かつてこんなことをつぶやきました。
たまたま今の世界が「言語」を高尚と認めるタイミングなだけ。
あと30年したら私の趣味は唾棄すべきものになるかもしれない。
かつて白眼視されていた趣味が社会人必須スキルになるかもしれない。
どんな趣味も本来は等しく、ただ時代の精神が自分勝手に「高尚」「低俗」「有益」「有害」のラベルを張り替えていくだけです。
結語、あるいは”そしてそれ故にこそ――”
だから私は高尚な行いなどしていません。
少なくとも自分を「高尚なる言語学習の徒」などとは思えません。
たまたま好きなものに人生を全振りしていたら、偶然にもその方向に光が降り注いでいただけ。私の努力で光をもたらしたのでもなければ、光を求めて辿り着いたのでもない。
生まれる場所が選べないように、好きになるものもきっと選べません。
先に述べたように、私の趣味は近い将来「くだらないもの」になるかもしれません。
それは自動翻訳のような技術革新によらずとも、たとえば政治体制の変遷程度で変わりうるものです。
言葉を慈しみともに戯れることが、今までのように評価されないとしても。言葉に注いだ愛情が、賞賛の言葉となって我が身に返ってこないとしても。
――言葉を愛そう、言葉が愛してくれないとしても。
(Linguas amemus, ne nos ament.)
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