サヨナライツカ

愛する第二男子寮で過ごす、最後の1日だった。

日曜日から3日間連続で泊まっていて、着替えたり仕事をしたりするために自分の家と一応は往復していたけれど、あまりにも濃密な時間を過ごしたから、まるでちょっとした旅行から帰ってきた気分だ。
ただ、この旅行には乗り継ぎ時間も、乗り物に揺られる時間もなかった。だからその分、しっかり両足で現実を踏めるようになるのは、少しだけ先のことだろう。

春頃から、2男で行われる仰々しいイベントの全ては「最後の」という形容詞で飾られた。「最後の」花見、「最後の」承認式、「最後の」ボールに「最後の」仁義。自分たちが存在していること、そしてそれを誇りに思っているということを、とかく声高に主張するのが得意な人たちだ。問題を起こしたことも、学校側と揉めたことも、過去数十年を遡れば数知れない。

私が知っているICU内のどの寮よりも多くの伝統行事を持ち、そしてそれを何世代にも渡って受け継いできた寮だった。ほとんど布切れのような法被、上半身裸で踊られるギンギラ、両腕でようやく抱えられるくらいの盃で交わされる兄弟の契り。詰まり詰まったその文化の濃度よりも、築60年という年数にこらえきれず、第二男子寮は今日、その歴史に幕を閉じた。

生きてゆくこととは流れてゆくことだ。流れを止めようとすれば淀んでしまうし、それに最後まで抗うことはできない。
だから閉寮に関してもそうなんだろう。私は父の仕事の関係でずいぶん色々なところを転々としてきたから、引っ越さなくてはいけないがために自分のホームを手放したことは幾たびもあったけれど、こんな形でホームを奪われる、と感じるのは初めてだ。私がこう感じるくらいなんだから、最後まで二男に住んでいた人たちは尚更そうだろう。

「ああ、あの時は良かった、あの時に戻りたい」とばかり思う人にはなりたくないと、ずっと思っていた。今日までは。第二男子寮には、もう二度と帰ることができない。あのハコには今日、もう帰るためにはあけられない鍵がかけられる。夏中には取り壊される。それでもまだ、第二男子寮は失われる過程にあるのだと思う。本当になくなったことを思い知るのは、きっと新学期が始まる頃にキャンパスに戻ったとき、その姿形がなくなった時だと思う。

昨日は第二男子寮での最後の飲み会だったのだけれど、あの規模で合法にできることは全てやり尽くした、という感じだった。室内にネズミハナビが投げ込まれ、空中また卓球台の上で爆発し、スプレー缶や油性ペンでは寮のいたるところにメッセージというか落書きがされ、スプレー缶とライターが組み合わされ小さい火炎放射が起こり、消化器は火を消さないためにただゴーゴー音を立てて白く噴煙されていた。たらい一杯の水がかけられ、床はびしょ濡れ、酔った阿呆が醤油やお酢など余っていた調味料を床にぶちまけ、これまた室内でエアガンと水鉄砲合戦。しこたま飲み、少しセンチメンタルになってくると、何年も前に流行っていた曲が次々と大音量で流され、肩を組み踊り明かし、朝がくるまで歌い続けた。本当に、とんでもない夜だったと、思う。

でも皆、すごくいい顔をしていた。この寮に入れてよかった、この人たちと出会えてよかった、今が楽しくて仕方がない...そんな光の粒が部屋をいっぱいに満たしていて、もちろん過去を振り返ったりして切ない気持ちになっている人もたくさんいたのだろうけれど、第二男子寮が好きで好きで仕方がない。そういった気持ちが部屋いっぱいにあふれていた。

こんなに素敵な時間だったんだから、あんなに愛した第二男子寮だったんだから、少しくらい感傷的になったり、「あの時に戻りたい」と思ったってダメなことはないだろう。ああした幸せな瞬間をつなげていくことで生きながらえてゆける。愛した第二男子寮で過ごした時間は、必ず生きていくための糧となる。

本当に最後の最後、予定されていた17時を大幅に上回り18時過ぎくらいに寮を出たとき、残っていた何人かの後輩たちが「行ってらっしゃい」と見送ってくれた。その「行ってらっしゃい」に「ただいま」と返すことは、もうしばらくはきっとないから、愛する親友と手をつなぎながら、帰り道に少しだけ泣いた。

だけれど、第二男子寮というハコはなくなってしまうけれど、その内実は半永久的に受け継ぐことができる。第二男子寮を愛する人たちが、第二男子寮を愛した名のもとに、集い続けてその思い出話に花を咲かせれば。そしてそれは、過去に生き続けることとは違う。過去を糧に、今を、将来を生きていくことだと思う。

日本語の「さようなら」は、サムライの美しい諦念の言葉だ。「さようなればならぬなら、さようなら」。別れを受け止めて、相手に言い渡す言葉。

さようなら、第二男子寮。そうなればならぬから。

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