ひとりぼっちふたりへ捧ぐ――「エイリアンズ」と郊外の宇宙
わたしの家族はよく「うた」を贈りあう。
実家に帰ると、父は必ず毎回違うレコードを聴いている。
母は雑談の合間に、必ず「これ聴いてよ」とYouTubeやApple Musicの画面を差し出してきて、わたしにうたを聴かせてくれる。
弟とわたしが音楽談議をすることはまれだが、家族でもっとも音楽にくわしいかれの音楽の影響を、両親ともに濃厚に受けている。
何しろ、バブルの時代に「スティーリー・ダンを知っているのがお互いだけだったから」という理由で、恋に落ちて結婚した両親だ。
この家族の音楽への熱情は血よりもずっと濃い。
というより、すべての親族が音楽でしかつながることのできない家だった。
結婚式でも葬式でも、ゆかりのある人が集まれば音楽の話しかしないのだから。
祝うことも、悼むことも、音楽でしか成り立たなかった。
母がキリンジの「エイリアンズ」を聴かせてくれたのは、いつのことだったか。ちょうど今日のようなけだるく暑い初夏の日だったと思う。
邦楽を薦めてくれるなんて珍しい、と思いながらスマホから聞こえてくる音に耳を澄ませていると、瞬く間に引き込まれてしまった。
ただ邦ロック史に燦然と輝く名曲だから、というだけではない。
キリンジの曲全体にいえることだが、実家で毎日毎日繰り返し聴かされてきた、スティーリー・ダンをはじめとする「黒人音楽から非常に強い影響を受けた洋楽ロックの名曲」たちを瞬時に想起するきわめて高い完成度に、痺れた。
Bメロのとても複雑なコードから、サビの「王道」とでも呼ぶべき分かりやすい進行へ移る解放感は何度聴いても本当に好きだ。
もともとは弟が高校生頃に「発掘」してきた曲で、キリンジのバンドとしての経緯もあって今ほどは聴かれていない時代だったという(公式がアップした2700万再生超えの動画も当時は40万再生ほどだったとか)。
それがスティーリー・ダン大好きな母にとんでもなく刺さり、今に至る……とのこと。
完成度の高い曲なだけに音楽としての分析は非常に多いが、歌詞に踏み込んだものは少ないので、今日の記事はそのあたりについて語ることにしたい。
「エイリアンズ」の舞台は堀込兄弟が育った西武線沿線の団地の片隅だ。
といってもわたしはそもそも西武線沿いに実家があったので、この歌詞の風景を地元に結びつけるのは、すこし難しかった。
母はこの曲をふたたび実家を出て一人暮らしを始める「わたし」と、近くに住むわたしの(当時の)恋人のために教えてくれた。「ふたりの抱える孤独がどうしても重なって仕方がない」と。
わたしが住む場所は町田だった。
町田の風景はほんとうに「エイリアンズ」に相応しい。
同じ東京とはいっても、23区内の実家からはかなり距離がある。
恋人はわたしが引っ越すまでのあいだ、毎週実家の目の前まで片道一時間以上かけて車で送り迎えしてくれていたが、町田に引っ越してからそれがいかに大変なことか思い知った。
遠いのだ。本当に。
町田の市街地から離れたあたりは、多摩丘陵の入口に高級住宅街と団地、そして小鳥たちを匿う森がモザイクのように折り重なっていて、その起伏豊かな情景はあきらかに「関東平野」とは全く異質だ。
「遥か空に旅客機(ボーイング)」が飛ぶには空が狭いが、それはビルのせいではなく、道々にそびえる丘と里山に視界が阻まれているからだ。
バイパスや高速道路は通っているが、その空気すら夜は澄んでいる。
鳥と車と虫の音が消える深夜は、街灯の明かり以外何も見えない。
「僻地」と呼ぶにはいささか都会なのだけれど、それでも「俗世」からははっきり隔絶されている。
「エイリアンズ」の白眉と呼べるパートはまさしくサビの「alien(s)」の使い方だ。
辞書を引けば「外国人」と載ってはいるが、映画「エイリアン」が流行してからは「異質な存在」「理解できない存在」といったニュアンスが強くなり、現在はあまり使われない。
そういった手触りのある言葉をあえて「自称」する形で使っているところに、主人公と相手の孤独や疎外感が描かれている。
同時に、相容れないし自分たちを受け入れることもない「僕の街」への(あきらめにも似た)愛情も受け取れる。
自分と目の前にいる相手。
自分と街。自分と現実。
そしてこの街の他者と他者。
それらすべての「相容れなさ」を抱き込みつつ、それをぎこちなく愛するラブソングとして曲を駆動させる鍵こそが「aliens」だ。
さて、視点を日本から外してみたい。
このような「エイリアン」「宇宙」のモチーフはキリンジの音楽のルーツであるブラックミュージックにも濃厚に見られ、特に最近はアフロフューチャリズムの文脈で語りなおされている。
初期の音楽家として有名なのは「土星からの使者」を名乗るサン・ラだし、わたしはファンカデリックが大好きだ。
アメリカ大陸の黒人のアーティストは、自らのルーツが経験した奴隷貿易をしばしば「エイリアンによって地球から誘拐された人間」のメタファーと結びつけてきた。
そのSF的な想像力によって、黒人がいま、この地球においても「みずからの身体をみずからが所有できず、実験や研究に利用されること」「命を尊重されないこと」「野蛮、外来、外国、野生とみなされること」「イリーガルであること」という現実に抗い、自身が人間であることを証明するための芸術を生み出してきた。
無論、キリンジの「エイリアンズ」もこういった流れは引き継いだうえで、日本という地域の「風景」そのものの中へとこのことばを翻訳しているところが、広く愛されるゆえんなのではないか、とわたしは感じている。
恋人と付き合っていた当時、わたしが恋愛相談をするたび母は「きみたちはエイリアンズだからねえ……」とぼやいていた。
かれが背負っていたきわめて複雑なバックグラウンドも含めて、「恋人」などという陳腐な関係性よりも、よほど愛情のこもった名づけだったと思う。
ただその一方で、「相容れなさ、分かり合えなさ」という、個性や多様性のきわめて後ろ向きな言い換えが人間を人間たらしめるものなのだとしたら、
そもそもあらゆるひととひととの関係に「エイリアンズ」でありえないものはない――とも、ときどき感じてしまうのだ。