百人一首についての思い その28

 第二十七番歌
「みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しからるらむ」 
 中納言兼輔
 奈良の木津川に水が湧き出し、水流が別れたいつみ川。その川を私はいつ見たというのだろうか。見たことなどないのに、どうしてこんなに恋しいのだろうか。
 
 When did you first spring into view?
 Like the Moor of Jars
 divided by the River of Spring,
 I am spilt in two― so deeply flows
 the river of my love for you.
 
 藤原兼輔は、紫式部の曾祖父にあたる。みかの原というは、京都府木津川市のあたりにあったという。そこは、聖武天皇が都と定めた恭仁京があった。聖武天皇在位の時代と兼輔が生きた時代では、二百年近くも離れているので、「いつ見きとてか」となるのは当然であろう。中納言が言いたいのは、木津川から水流が別れて泉川という川になる。私は、その泉川など見たことはない。しかし、見たこともない泉川がどうしてこんなにも恋しいのかという意味である。
 
 聖武天皇の時代にみかの原に恭仁京という都があり、そこから政治の水流が別れた聖武天皇の時代の政治の流れを泉川にたとえているとも受け取れる。中納言兼輔は、聖武天皇にお会いしたことはないし、恭仁京も見たことがない。
 でも、その見たことない聖武天皇と恭仁京が恋しいと歌ったのだ。その理由は何だろうか。
 聖武天皇は、民衆に仏教を布教していた行基と和解する。仏教は国営仏教であり、民間での仏教布教は禁止されていた。だから、行基はご禁制を破った罪人だった。だが、聖武天皇は行基と和解された。いくつかのポイントを押さえよう。
 一つ目は、天平時代までは国営仏教であった。
 二つ目は、天変地異が相次いで起きたため、鎮撫の意味で大きな伽藍や大仏が建立された。
 三つ目は、聖武天皇の時代から仏教が民間信仰の仲間入りをした。
 四つ目は、当時からインドやベトナムとも交流があった。交流があったのは支那と朝鮮だけではなかったのだ。
 五つ目は、これらのことによって仏教を基調とする絵画、彫刻、田楽など国際色豊かな文化、芸術が花開いた。
 つまり、兼輔のこの歌は「大化の改新」が完成した聖武天皇の時代に花開いた「天平文化」に対する恋しさだったのである。ここでは詳細は省くが、『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』を読めば、そのことが明確に理解できる。
 

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