西行の足跡 その31
29「立ち昇る月の辺りに雲消えて光重ぬる七越の峯」 山家集下・雑・1403
立ち上るにつれ、いつしか月の周りの雲も消えて、七越の峰は光を重ねたように月光に浮き立ち、その奥にいくつも展開する大峰の峰々が幻視される。
七越の峯は熊野本宮大社旧社地の東方すぐ近くにある山なので、夜、本宮に参拝した折に詠んだ歌だと取るのが素直な読み方だろうという見解がある。
『古今著聞集』から
引用ここから
「西行法師、大峰を通らんと思ふ志深かりけれども、入道の身にては常ならぬ事なれば、思ひ煩ひて過ぎ侍りけるに、宗南坊僧都行宗、其の事を聞きて、何か苦しからん、結縁のためにはさのみこそあれ、と言ひければ、悦びて思ひ立ちけり。かやうに候ふ非人の、山伏の禮法正しうして、通り候はんことは、すべて叶ふばけらず。ただ何事をも免じ給ふべきならば、御ともつかまつらん、と言ひければ、宗南坊、其の事はみな存知し侍り。人によるべき事なり。疑ひあるべからず、と言ひければ、悦びて、すでに具して入りにけり。宗南坊、さしもよく約束しつる旨を、みな背きて、礼法を厳しくして、責めさいなみて、人よりも殊に痛めければ、西行涙を流して、我は本より名聞を好まず、利養を思はず、只結縁の為にとこそ思ひつる事を、かかる驕慢の職にて侍りけるを知らで、身を苦しめ心を砕く事こそ悔しけれ、とて、さめざめと泣きけるを、宗南坊聞きて、西行を呼びて言ひけるは、上人道心堅固にして、難行苦行し給ふ事は、世以て知れり。人以て帰せり。其のやんごとなきにこそ此の峰をば許し奉れ。先達の命に随ひて身を苦しめて、木をこり水をくみ、或いは勘発の詞を聞き、或いは杖木を蒙る、是れ則ち地獄の苦を償のふなり。日食少しきにして、餓え忍び難きは、餓鬼の哀しみを報ふなり。又重き荷をかけて、さかしき嶺を越え深き谷をわくるは、畜生の報を果たすなり。かくひねもすに夜もすがら身をしぼりて、暁懺法をよみて、罪障を消除するは、已に三悪道の苦患を果たして、早く無垢無惱の寶土にうつる心なり。上人出離生死の思ひありと雖も此の心を辨えずして、濫りがはしく名聞利養の職なりと言へる事、甚だ愚なり、と恥しめければ、西行掌を合はせて随喜の涙を流しけり」
引用ここまで
なお、行宗という修験者は有名な人だったようだが、私には詳細は分からないし、古典の専門家でもない私には興味がない。
ところで、熊野には熊野九十九王子と呼ばれる王子があった。九十九とは「数が多い」という意味である。王子とは、熊野権現の御子神のことを指す。
次の歌が最も有名だそうだ。
「待ち来つる八上の桜咲きにけりあらくおろすな三栖(みす)の山風」
山家集上・春・98
この歌の詞書きに「熊野へまいりけるに、八上の王子の花面白かりければ、社に書きつけける」とある。
鳥羽院の岩田御所と推定される稲葉王子では次の歌を詠んだ。
「松が根の岩田の岸の夕涼み君があれなと思ほゆるかな」
山家集下・雑・1077
松の根が岩を抱える岩田川の川岸で水垢離を取った。身も清められたが暑気を払う夕涼みとしても心地よかった。君も一緒だったらと思ってしまいましたよ。
君と一緒だったらと思ったというのだが、その君とは同行の西住のこと。西行は春には八上の桜を見て、夏には稲葉根で夕涼みをした。つまり、少なくとも二回は熊野詣でをしたことになる。
次は修験道を修行した西行には植物の知識も豊富だったという話に移る。
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