百人一首についての思い第三十四番歌


「誰をかも知る人にせむ高砂の待つも昔の友ならなくに」 
 藤原興風(おきかぜ)
 いったい誰を友にしたらよいのだろうか。長寿で有名な高砂の松でさえも昔からの友ではないのに。
 
 Of those I loved, none are left.
 Only the aged pine
 of Takasago
 has many years, but, alas,
 he is not an old friend of mine.
 
 自分の周囲から昔なじみの人々がどんどん去って行く。知り合いの数が減っていく。昔からの友達はもう残っていない。そのような老境にある人の心境はいかばかりだろうということを言いたいのだろうと、老い先短い人ならすぐに理解できる歌である。ただ、若い人にはぴんと来ないのが当然である。
 
 しかし、「高砂の松」とは何だろうか。小名木さんはすぐに以下のように説明してくれる。世阿弥の能に「高砂」という演目がある。熊手を持った翁と箒を持った媼が現れる。友成という神主が現れ、「あの有名な高砂の松はどこにありますか」と聞いた。「ここがそうですよ」と翁と媼が答える。「高砂の松と、大阪の住之江の松は、遠く離れているのに、なぜ相生の松というのでしょうか」と友成が聞く。「おじいさんが住吉の住人で、おばあさんは高砂の住人です。二人は夫婦でして、離れていても心は通い合うのです」
 つまり、藤原興風は、「友人はみんな死んでしまった。都に残した老妻のみしかいないのだな」という感慨を述べたのである。
 
 この第三十四番が、都に残してきた老妻のことを歌ったのであるからには、歌第三十三番歌として配置された紀友則の歌は、突然亡くなってしまった良き友、あるいは身内のだれかを桜に例えた歌であると、断言できる。
私も大切に思っていた友人のうちの何人かを五十代で亡くしてしまった。だれがいつどのように亡くなっていくのかは全く分からない。悪人が長生きする場合もあれば、善人が若死にする場合もある。「憎まれっ子世に憚る」という諺があるくらいだ。
 
 まあ、善人はいろいろと他人に気遣いするので疲れてしまうと言う面があり、それがストレスにつながるとも考えられる。何しろ、「憎まれっ子」は他人への気遣いなどしないから、ストレスがない。それで長生きできるとも考えられる。いずれにせよ、人の定めや寿命は様々であり、予測も変更もできない。ただただ世の中は無常であると思いなして、生きていくしかない。
 

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