百人一首についての思い その101

 第百番歌
「百敷や古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり」 順徳院
 都の皇居は荒廃し、今では屋根の端(軒先)に、シダが生えて来ている有様です。いくら忍んでも忍び切れないのは、古き良き時代のことなのです。
 
 Memory ferns sprout vin the eaves
 of the old forsaken palace.
 But however much I yearn for it,
 I can never bring back
 that glorious reign of old.
 
 順徳院は後鳥羽上皇の息子で、14歳の時に第八十四第順徳天皇として即位した。父後鳥羽上皇の討幕計画に参画し、それに備えるため、承久3年(1221年)4月に子の懐成(かねなり)親王(仲恭天皇)に譲位して上皇の立場に退いた。父上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、5月に承久の乱を引き起こしたものの倒幕は失敗に終わった。乱後の7月21日、上皇は都を離れて佐渡へ配流となった。
 
 この歌は「承久の乱」の5年前に詠まれたので天皇在位中の御製である。百敷とは宮中のことである。天皇が皇居の荒廃を嘆いている。それは、国の荒廃を憂えているのだ。
 天智天皇と持統天皇の歌から始まる「百人一首」は後鳥羽殷と順徳院の歌で終わる。「昔」は、「シラス国」づくりに取り組んだ天智天皇の歌から始まり、順徳院の歌で終わる。一首目から百首目でもう一度「シラス国」への思いが、一首目から始まる。
 
 この世に「まこと」を尽くす人がいる限り、そして日本に天皇・皇室という存在がある限り、いつかきっと再び平和な時代が来るに違いない。そんな思いで定家は「百人一首」を編纂したのだと思う、現代を生きている私達の胸にも熱い思いがわき上がり、明日もまた精一杯正しく生きようという気力がわき上がる。
 最後に一言言いたい。小名木さんの『ねずさんの日本の心で読み解く百人一首』という本に出会えたのは、老年の私にもまだ幸運が残っていたということの証である。「百人一首」のどこが良いのかという長年の疑問も、この本を読むことで理解できた。そして、自分の思いを書き残したのは、いつの日か子孫にも「百人一首」の良さを理解してもらいたいと思ったからである。
 
 

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