克伐怨欲

 克伐怨欲
 
克伐怨欲とは、孔子が戒めた四つの悪徳のことである。『論語』憲問第十四より
 
 克伐怨欲不行焉。可以爲仁矣。子曰。可以爲難矣。仁則吾不知也。
 克・伐・怨・欲、行なわれざるは、もって仁となすべきか。子曰く、もって難しとなすべし。仁はすなわちわれ知らざるなり。
 
 いくつかの例を挙げながら、これらのことを考えていきたい。
「克」とは勝つことを好むことである。項羽と劉邦の項羽を取り上げよう。
 司馬遷の史記によれば、秦の始皇帝が会稽郡を巡行して浙江を渡ったとき、まだ少年時代の項羽が、この行列を見物した際につぎのような言葉を吐いたそうだ。
「彼、取ってかわるべきなり。」つまり、あのやろうに取って代わってやるというわけだ。
 一方の劉邦は、咸陽の地で始皇帝の行列を見たときに、次のように言った
「ああ、大丈夫かくのごとくなるべきなり。」つまり、男ならああいう人間になりたいな、ということだ。非常に対照的な言葉である。
 項羽には常に頭の中に、「克」という考えがあったのである。そして、まさに戦争では天才的に強かった。
 しかし、紆余曲折の挙げ句は劉邦に負けて、非業の死を遂げた。
 
 伐は自分を誇ること。
『老子』第24章にはこんな言葉が連なる。
 企(つまだ)つ者は立たず、跨(また)ぐ者は行かず。
 自(みずか)ら見る者は明らかならず、自ら是とする者は彰(あら)われず。
 自ら伐(ほこ)る者は功無く、自ら矜(ほこ)る者は長しからず。
 
 これを要約するとこういうことだ。
 つま先で立つ者は、ずっと立ってはおられず、大股で歩く者は、遠くまでは行けない。
 自ら正しいとする者は、是非が明らかにできない。
 自ら功を誇る者は、功がなくなり、自ら才知を誇る者は、長続きしない。
 
 無為自然が最大の行動規範であった老子からすれば、このように自分を誇ってばかりいる者たちの危うさが十分見えていたのだ。
 
 怨は人を恨むこと。
「死屍に鞭(むちう)つ」の語源となった、伍子胥について書こう。楚の平王に父と兄を殺された伍子胥は、呉に逃亡した。その後、孫武と共に呉王闔閭の補佐に当たり、呉国内の整備に尽力した。やがて、国力が充実した呉は楚を攻め落とした。そこから伍子胥の復讐が始まる。平王は 既に死んでいたので伍子胥は王墓を暴き、平王の死体を300回に及び鞭打って恨みを晴らした。これが「死屍に鞭(むちう)つ」の語源になった。
伍子胥は激情の人である。その何人も恐れぬ激情さゆえに多大な功績を上げた。しかしその激情ゆえに最後は主君と対立し疎まれ誅殺される事になった。一方、ライバルとして良く対照して比べられる范蠡は冷静に時流を読むや越を去り、最後は斉で富豪になったといわれる。鮮やかに身を引いて人生を全うした范蠡の生き方に後世の人々は感服し敬愛したが、その一方で激情の人・伍子胥の激しい生き様にも心を打たれ愛情を注いだ。そこが昔の中国人(現在の共産党によって間違った教育で考え方をねじ曲げられた中国人とは大きく異なる。)のよいところだ。
 
 欲はむさぼること。
 後漢の光武帝(劉秀)が岑彭に言った。
「人自ら足れりとせざるを苦しむ、既に隴を得て復た蜀を望む」『後漢書・岑彭伝』
 漢の光武帝が隴の地方を平定したあと、蜀をも手に入れようとした自分自身の欲深さを自嘲したという故事に基づく。魏の曹操が隴の地を手に入れた際、部下の司馬懿が「蜀の地も攻め取りましょう」と言うのを聞き、「すでに隴を得たうえに蜀まで望むとは」と言った。「隴」とは中国甘粛省南東部の地名であり、「蜀」とは、現在の四川省の地域のことである。
 それでは、現代日本人はどうだろうか。戦後の物質に乏しかった時代から経済を発展させ続け、米国に次ぐ世界第二位の経済大国にまで上り詰めた。その後は中国に抜かれたが、今でもそれなりの経済大国ではある。
 もはやこれ以上特にほしい物はないというくらい、家の中には物質が溢れている。だからこそ、断捨離が流行したりするのだろう。さらには世界一の長寿大国にもなった。それなのに、アンチエイジングだとか美魔女だとか、自然に逆らおうとする傾向が強い。これを欲張りと言わずして、何を欲張りと言うのか。無闇な長寿願望はもう辞めにしたいものだ。

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