詩歌によせて4
人生の重力
ヒッグス粒子というものが発見されたという。宇宙の生成に際して水飴状のものが物質に降りかかり、それによって物質が質量を持つようになったという話だが、私には難しすぎてよく理解できない。ともかく、物質に重力を与えたのが、このヒッグス粒子らしい。
地球に重力があることは小学生でも知っている。重力があるからこそ、地球が自転していようとも我々は地球から放り出されずに、この地上で生きていけることは言うまでもない。
地上の重力と同じように、人はだれも何らかの重力に引っ張られているからこそ生きていけるのだと思う。もちろん、幼い頃はその重力の持つ意味などに気付くはずもない。だが、思春期になると様々な重力に引っ張られていることに気がつき始める。その重力を桎梏と感じ始めたら、思春期の子どもたちは暴走するしかない。だからこそ、大人は子どもたちに教えなければならないのだ。人生の重力とは桎梏などではなく、逞しく生きるための最低限の制約なのだということを。
まず、地球という小さな星に78億人近い人口がいるのだから、我慢して生きていかなければならない制約があるのは当然のことだということを知らねばならない。これがすべての始まりだ。この78億人もいる人が、それぞれわがままを言いだしたら、途轍もない混乱に叩き込まれることは誰にでも分かるだろう。
次の重力は国である。私たちはそれぞれどこかの国の国民にならなければいけない。しかも、自分はアメリカ人になりたいと、アフリカに住む人が思っても、そうはいかない。普通の人は自分の生まれた国の国籍に組み込まれる。特定の国の国籍を選びたいのであれば、まず自分の現在の国籍を離脱しなければならない。そして、希望する国で国民になるための義務や法律をクリアしなければならない。これも大きな重力だ。
しかし、時にはこの自制ができずに、自分の欲望とか希望しか考慮しないで行動する愚劣な人たちがいる。そういう人は、法律さえも犯すことになる。当然の結果として犯罪人になってしまい、法律で裁かれる。
青年期にはその重力にどんな意味があるのか考え込むあまり反発してみたり、重力の辛さに耐えきれず生きることを放棄してみたりする場合もある。自由というものが絶対唯一の神様あるいは指標だという思い込みに陥ることもある。青春時代の真ん中にある人がこの日記を読んでいるのであれば、私は君に一篇の詩を送ろう。
(原文は歴史的仮名遣い。現代仮名遣いに改めた)
そんなに凝視めるな 伊東静雄
そんなに凝視(みつ)めるな わかい友
自然が与える暗示は
いかにそれが光耀にみちていようとも
凝視(みつ)めるふかい瞳にはついに悲しみだ
鳥の飛翔の跡を天空(そら)にさがすな
夕陽と朝陽のなかに立ちどまるな
手にふるる野花はそれを摘み
花とみづからをささえつつ歩みを運べ
問いはそのまま答えであり
堪える痛みもすでにひとつの睡眠(ねむり)だ
風がつたえる白い稜石(かどいし)の反射を わかい友
そんなに永(なが)く凝視(みつ)めるな
われ等は自然の多様と変化のうちにこそ育ち
あゝ 歓(よろこ)びと意志も亦そこにあると知れ
詩人は「手にふるる野花はそれを摘み/花とみづからをささえつつ歩みを運べ」と歌った。手に触れることができる花を摘まないのは、愚かしいことだ。さらに、重力に縛られ過ぎて、歩みを進めないのは愚かしいことだ。自分の手に入れたいものと重力のバランスをよく保つものだけが、喜びを手に入れることができるのである。
ここで言う「手にふるる野花」とは、世俗的成功、すなわち金銭や社会的地位、世界に通用するプロサッカー選手になる夢とか小説家になりたいという夢以外にも精神的な夢、野望、また哲学的満足や宗教的満足なども含む。
また、成人になった普通の人は自分の重力を自覚しながら、その重力の意味や目的を考えない。ぜなら重力の意味などを考えたところで、自分の重力が軽くなるわけではないことを知っているからだ。中高年になってようやくこの重力の意味が理解できるようになる。そのとき、一休が詠んだ歌の意味の重みがずしりと、胸に響く。
世の中は食うてはこして寝て起きてさてその後は死ぬるばかりぞ 一休宗純
繰り返される日常以外には我々が依って立つ世界はない。この日常はつまらなくて、苦しいことの連続だが、我々はそれ以外に住む世界がないのである。