百人一首についての思い その58

 第五十七番歌
「めぐり逢いて見しやそれとも分かぬまに雲隠れにし夜半の月影」 紫式部
 久しぶりに会った友だちは、見たかどうかもわからないほどの短時間で、真夜中に月が雲に隠れるように去ってしまいました。

 Just like the moon,
 you had come and gone
 before I knew it.
 Were you, too, hiding
 among the midnight clouds?

『新古今集』(1479)の詞書きには、こうある。
「早くより、童(わらは)友だちに侍りける人の、年ごろ経てゆき逢ひたる、ほのかにて、七月十日のころ、月にきほひて帰りは侍りければ」

 幼なじみが昼に何年かぶりに訪ねてきた。そして、夜半に帰って行った。積もる話や幼かった頃の思い出話に夢中になっていたので、かなり長時間を一緒に過ごしたはずだが、紫式部にはほんの一瞬にしか感じられなかった。ここから、いつも多数の友達と仲良くしているという姿は見られない。きっと、少数の友達とときどき逢うというぐらいの人だったのだろう。私自身もそうだから、なんとなく理解できる。

 いつも多くの友達とわいわい騒いでいる人は、いつも心が渇いているのだろうと思う。だから、友達と一緒にいることで安心するのだろう。紫式部はそういう人は全く違っていて、孤独のうちにも心が何かを渇望することはなかったのだろうと推察できる。

 それにしても、心が渇く人は何をもとめているのだろうか。私のすごさを認めよという承認欲求の場合もあるだろうし、この気持ちを分かってもらいたいという場合もあるだう。あるいは、人に話すことで自分の苛立ちや悩みを減らせるということもあるだろう。いずれにしても、人は孤独になると、心が渇くようだ。

 さて、この歌には「めぐり逢い」とあるからには、きっとその幼なじみとはまた「めぐり逢」うこともあろうと思ったのだろう。だが、再びの「めぐり逢い」があっても、紫式部は多弁ではなく、静かに友人の話に耳を傾けているだけなのだろう。そういう姿がほんのりと見えてくる。和歌の持つ力は本当に恐ろしい。


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